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信州にもあった!五稜郭 それが龍岡城五稜郭

goryoukaku

五稜郭(ごりょうかく)は、幕末に箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された西洋式(稜堡式)の城郭。函館を代表する観光スポットで、明治維新の際に官軍と旧幕府軍の攻防でも有名です。ところが、日本にはもうひとつ、五稜郭があります。それが長野県佐久市の龍岡城。函館同様に星形(五芒星形)をしています。

幕末に松平乗謨が田野口藩(龍岡藩)の藩庁として建造

建築当時の龍岡城五稜郭の配置。中央が御殿

五稜星(ごりょうせい)とは、北海道の開拓使のシンボルマークで、★の形を意味する言葉で、船乗りたちの航海の目印となった北斗星をイメージしているとも、五稜郭をデザイン化したともいわれています。
函館市にある、戊辰戦争最終版の箱館戦争の舞台となった五稜郭は、日本にある西洋式城郭の代表的な存在ですが、船からの艦砲射撃などを意識して、徳川幕府が幕末に少し内陸部に西洋式の城郭を築きました。

そんな五稜郭が、山国の信州にもあります。
それが田野口藩(龍岡藩)の藩庁だった龍岡城です。

龍岡城は、文久3年(1863年)、三河国奥殿藩(奥殿陣屋=愛知県岡崎市奥殿町)の第8代藩主・松平乗謨(まつだいらのりかた)が分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を得て築いた城。

江戸から遠く離れた奥殿藩でも嘉永6年(1853年)のペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成したりと、西洋的な軍制への改革を始めます。
東海道沿いの奥殿陣屋を捨て、内陸部の信州へと本拠を移したのも、沿岸部にある東海道より、内陸の方がという思いが当然あったと推測できます。

砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた松平乗謨は、稜堡式城郭(星形要塞)として4万両を費やしてフランス式の稜堡を取り入れた龍岡城を築城したのです。
慶応2年(1866年)12月、石垣と土塁が竣工。
慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿が完成しています。

幕府は当時に城を新たに造ることを禁止していましたが、幕府の重要な職である若年寄(老中に次ぐ重職)ということもあって、西洋の軍学にも関心を寄せていた松平乗謨は特別に許可をもらい、ヴォーバン式城郭(フランスのリール市の星形の堀をもつ城郭ヴォーバン城をモデルとした城郭)の龍岡城を築城するのです。

御殿の完成半年後に大政奉還

龍岡城五稜郭の稜堡(外に向かって突き出した角の部分)

慶応3年(1867年)4月に御殿の完成を見ていますが、5月24日には兵庫開港の勅許が下り、6月9日には有名な坂本龍馬の「船中八策」、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還が実現し、時代は急速に開国へと傾いていました。

その年の11月15日には坂本竜馬が暗殺されますが、時代の流れは進み、12月7日に兵庫(神戸)港を開港、12月9日には王政復古に関する御前会議が開かれています。

ひょっとすると松平乗謨はこのダイナミックな時代の動きを読み違えていたのかもしれません。
あるいは、いざというときにはここを幕府軍の拠点と考えたのかもしれません。

結果としては築城後、すぐに開国、4年ほどで明治維新を迎え、廃城に。
龍岡藩は1万6000石という小藩だったのにもかかわらず、大名といえないために厳密には城ではなく田野口陣屋(龍岡陣屋)という「陣屋」の扱い。
近隣の岩村田藩同様に、小藩だったため、県庁などの行政機関も置かれることがなく、城は破却され、明治5年(1872年)に龍岡城は解体されています。

城郭内には、明治8年に田野口村の尚友学校が移転し、現在も佐久市立田口小学校の校庭になっています(そのため学校敷地内は見学不可)。
学校校庭に隣接して御台所櫓が現存しています。

画像協力/佐久市

事前に佐久市教育委員会文化財課予約すれば、御台所櫓の内部も見学可能

函館に現存する五稜郭とどっち先に建造!?

さてさて、箱館(現・北海道函館市)に築かれた五稜郭と龍岡城五稜郭、どちらが先に築かれたのでしょう?

五稜郭は、安政元年(1854年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、国防上の理由で、内陸部に箱館奉行所を移すことを検討します。
箱館湾の軍艦からの艦砲射撃でも届かない、亀田の地に西洋式城郭を建設することを決め、安政2年(1855年)7月に箱館港に入港したフランス軍艦・コンスタンティーヌ号の副艦長から大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取っています。

当時、松平乗謨は、徳川幕府の若年寄という重責を務めていましたから、当然、この五稜郭の築城の詳細は手にしていたはず。
つまりは、この五稜郭をヒントに、「領地の信州にも五稜郭を」と考えたのだと推測できます。

実際に、両方の城を訪ねてみると、基本的な構造は似ていますが、規模は五稜郭が龍岡城の2倍あり、本家本元は五稜郭だと実感できます。

五稜郭タワーから見下ろした五稜郭(北海道函館市)
龍岡城五稜郭
名称龍岡城五稜郭/たつおかじょうごりょうかく
所在地長野県佐久市田口
関連HP佐久市観光協会公式ホームページ
電車・バスでJR小海線臼田駅から徒歩20分
ドライブで中部横断自動車道佐久南ICから約10km
駐車場15台/無料
問い合わせ佐久市文化振興課文化財事務所 TEL:0267-63-5321
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

長野県七大名城とは!?

信州には国宝松本城のほか、「穴城」の小諸城、川中島合戦の拠点となった松代城、日本三大湖城の高島城、真田昌幸が徳川秀忠の大軍を退けた上田城、幕末に築かれた「五稜郭」の龍岡城、桜で知られる高島城と名城が数多く、以上の7城が日本100名城、続日本

五稜郭

江戸幕府が倒れ、大政奉還(たいせいほうかん)が行なわれたのが、慶応3年(1867年)。これに不満をもった旧幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)らが占拠し、最後の砦となったのが、箱館(北海道函館市)の五稜郭(ごりょうかく)です。異国船の襲来に備

奥殿陣屋

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