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【避暑地の散歩道】幸福の谷・ハッピーバレー(長野県軽井沢町)

万平ホテルから旧軽井沢の別荘地を散策すると、川端康成の別荘に行き当たります。別荘の前の道は軽井沢に唯一残される石畳の道。そしてその道が外国人宣教師が「Happy Valley・ハッピーバレー」(幸福の谷)と名付けた場所です。

失意の堀辰雄は、「死のかげの谷」と命名

「私の借りた小屋は、その村からすこし北へはいった、ある小さな谷にあって、そこいらにも古くから外人たちの別荘があちこちに立っている、ーなんでもそれらの別荘の一番はずれになっているはずだった。そこに夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか」(堀辰雄『風立ちぬ』最終章「死のかげの谷」)。
堀辰雄の代表的な小説『風立ちぬ』は、胸を病み軽井沢に静養に来ていた矢野綾子との出会いから婚約、富士見高原療養所での半年にわたるふたりの入院生活、綾子を失ってからの軽井沢での様子を題材にした作品です。
堀辰雄が婚約者・矢野綾子を失った傷心の中で『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」を書き上げたのは、「万平ホテル」裏手の「ハッピーバレー」(幸福の谷)に建つ川端康成氏の別荘でした。
堀辰雄が幸福の谷の別荘に住んだのは、夏ではなく、昭和11年の11月下旬から年末。「死のかげの谷。・・・そう、よっぽどそう云った方がこの谷には似合いそうだな、少くともこんな冬のさなか、こういうところで寂しい鰥暮(やもめぐ)らしをしようとしているおれにとっては」(堀辰雄『風立ちぬ』最終章「死のかげの谷」)。

昭和12年7月から9月まで藤屋旅館に滞在していた川端康成ですが、有名な『雪国』で文芸懇話会賞を受賞。その賞金1000円で桜の沢一三〇七番の別荘(第一山荘=現存せず)を外国人宣教師から譲り受けます。
「山小屋を買った年、私夫妻は十一月の末までいた。まわりの小屋はみなとざされ、雑木の葉は落ちつくし、町にでる道はまだら雪だった。私たちが去ったあとに、堀辰雄くんが来て冬を過ごし、この小屋で『風立ちぬ』の終章ができた」(野上彰『軽井沢物語』序文/川端康成)

苔生す石垣に囲まれた石畳の道

正式な名は南幸の谷(HAPPY VALLEY SOUTH)だった!

「私の小屋のある表の谷を、五六十年前このあたりに山小屋を立てた外国人宣教師たちが『南幸(みなみさち)の谷(HAPPY VALLEY SOUTH)』と名づけー土地の人は桜の沢と呼んでいるー裏山の向こうの谷を『北幸(きたさち)の谷』と名づけた」(随筆『秋風高原』/川端康成)

昭和16年に第二次世界大戦が激しさを増すと、川端康成は桜の沢一三〇五番の別荘を故国に帰るイギリス人宣教師から買い求めて、こちらに移転しています(第二別荘)。堀辰雄もこの年、スミス山荘を購入。
この「幸福の谷」の別荘で川端康成は多くの作品を残しています。

以前に、幸福の谷で出会った、桜の沢に別荘を構える住人は「川端先生が幸福の谷と名付けたんです」と語ってくれましたが、これは間違い。
明治から大正にかけて、西欧列強はアジア各地を植民地にして駐留していました。将校たちは夏のバカンスに軽井沢にやってくることも多く。、そんな世情がHAPPY VALLEYという地名を生み出したと推測できます。当時、イギリス植民地だった香港にも快活谷(Happy Valley・ハッピーバレー=ハッピーバレー競馬場があります)という地名が生まれています。
 

 

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