静岡県新居町(あらいちょう)は、浜名湖と遠州灘がつながる「今切口(いまぎれぐち)」の西側にあります。平成22年3月に愛知県豊橋市に隣接する静岡県最西端の湖西市と合併し、湖西市新居町になっています。そんな旧新居町のマンホールに描かれているのは、日本で唯一現存する関所建築の「新居関所」(あらいせきしょ)、波と千鳥、マツです。
浜名湖の今切口の渡船と旅人を臨検した新居関所
浜名湖は、琵琶湖を「近つ淡海(ちかつおうみ)」というのに対して、都から遠い湖ということで遠淡海(とおつおうみ)と呼ばれる淡水の湖でした。
淡海(おうみ)から近江(おうみ)、遠淡海(とおつおうみ)から遠江(とおとうみ)で、静岡県西部の旧国名・遠江の由来にもなっています。
地形としては遠淡海(浜名湖)から海(遠州灘)へ浜名川が流れ出て、浜名川の河口に東西の岸を往来する浜名橋が架けられていました。初めて架けられたのは、平安時代初めの貞観4年(862年)。古代の東海道をゆく旅人は浜名湖を橋で渡っていました。場所は現在の「新居関所」の南南西。国道1号と浜名バイパスの中間あたりに浜名橋の旧跡が残されています。
浜名湖は明応7年(1498年)の大地震(明応地震)と津波によって、海と湖を隔てていた地面の弱い部分が決壊、開口部から海水が流れ込むようになり、淡水湖だった湖は現在のような汽水湖になりました。
明応地震の津波は高さ6m〜8mと推測され、鎌倉・高徳院の大仏殿も、この津波で流されています。
この時に決壊した場所が「今切れた」という文字通りに「今切(いまぎれ)」。遠州灘とつながる今切口です。
今切口という湖口が誕生したため、その後の東西の往来は「今切の渡し(いまぎれのわたし)」の渡船が必要となり、交通の難所として知られるようになりました。
現在の浜名湖「今切口」には国道1号(浜名バイパス)の浜名大橋が架けられています。
国の特別史跡新居関所
慶長5(1600)年、徳川家康によって舞坂宿(まいさかじゅく/現・静岡県浜松市西区)と新居宿(あらいじゅく/静岡県湖西市/東海道五十三次の江戸側から数えて31番目の宿場で旧名「荒井宿」)の間、浜名湖岸に設置されたのが新居関所です。
別名「今切の関所」と呼ばれた新居関所は「海の関所」と「陸の関所」を兼ね、箱根の関にも勝るとも劣らない東海道の重要な関所で、新居宿は交通の要衝として繁栄しました。
海の関所だったというのは、満潮になると二百石船が浜名湖に出入りが可能で、諸国の廻船も避難港に使っていたのです。ここからやはり船の臨検を行なった伊豆下田湊(現・静岡県下田市)まで海上を43里の行程(『皇国総海岸図』安政2年)でした。
新居関所は当初、阿礼崎に建てられましたが、元禄13年(1700年)の津波で200mほど西の藤十郎山へ移転。さらに宝永4年(1707年)の地震による津波など、度重なる地震、津波、暴風雨の被害により、現在地に移転。
現在ある建物は、安政の東海地震翌年、安政2年(1855年)に再建されたもので、全国で唯一現存する関所建物として、国の特別史跡に指定されています。
湖西市では、新居関跡の復元整備事業を進め、発掘調査によって大御門や土塁の遺構が出土。
今切渡船場の石垣・護岸のほか、関所の入口となる枡形広場の土塁柵、高札場、大御門、女改め長屋と船会所などが復元されています。
隣接して「新居関所史料館」が建てられ、往時を偲ぶ道中絵図や通行手形などが展示されています。
「波と千鳥」は縁起重視のデザイナーの粋な配慮!?
マンホールに描かれた「波と千鳥」は、古くから広く親しまれてきた和柄「波に千鳥」です。夏によく目にするかき氷ののぼり旗にも描かれてなじみ深い文様といえます。「波に千鳥」は、絵になるような調和の良いもの、取り合わせの良いものたとえでもあり、夫婦円満、家内安全を表す縁起柄にもなっています。
「今切り」が「今切れる」で結婚式などに関連する旅人は、浜名湖北岸の姫街道を通ったなどという話もあるので、案外、そんなエピソードを踏まえた絵柄なのかもしれません。
千鳥は旧新居町の「町の鳥」にもなっていました。
「町の木」マツは「市の木」にもなっている
今切口の東側(浜松側)に位置する舞阪宿には、今も700mに渡って東海道の立派な松並木が残されています。新居宿側も教恩寺から西に1kmに渡り松並木が現存。さらに往時には弁天島(現・浜松市西区舞阪町)から新居の橋本まで続いた砂州に、天橋立のような美しい松林が続いていたそうです。
この松林に舞い降りた天女が、三保の松原に移り住んだなんて話も残されています。
「新居関所」、古来、縁起のいい絵柄とされる「波に千鳥」、そして「松」と、旧新居町のマンホールの絵柄は浜名湖を歩行(かち)と船で渡った時代を強く意識したもの。さらに新居町も浜松ではなく、湖西市と合併したことも歴史を大いに反映しています。
今切口は渡船で渡ったわけですが、その渡船の管理監督は新居宿側が一手に担っていたのです。これは三河出身で浜松城主を務めたこともあり、地元に精通する徳川家康の考え。
新居宿と家康との深〜い関係とは!?
どうして家康は、今切口の船の独占権を新居側に与えたのでしょう?
実はヒントは、その年代に隠されています。
今切渡船の独占的運営権は、浜松に居城を移した徳川家康が、天正2年(1574年)に新居宿の船守に対して与えたもの。100隻(のちに120隻)の渡船の独占的な運航権を握るわけですから、宿場は大いに潤います。その後、舞阪宿も「せめて片道だけでも」と運営権の委譲を訴えますが、幕府は聞き入れませんでした。
家康は、城主となった浜松側ではなく、故国・三河に近い新居宿を重視したのです。
やはり、渡船が始まっても、この湖口は東西の物流を遮断していたのです。
まあ、そこが家康の狙いでもあったのでしょうが。
新居関所史料館 | |
名称 | 新居関所史料館/あらいせきしょしりょうかん |
所在地 | 静岡県湖西市新居町新居1227-5 |
関連HP | 浜松・浜名湖ツーリズムビューロー公式ホームページ |
電車・バスで | JR新居町駅南口から徒歩8分 |
ドライブで | 東名高速道路浜松西ICから約16km、三ケ日ICから約19km |
駐車場 | 33台/無料 |
問い合わせ | 新居関所史料館 TEL&FAX:053-594-3615 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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