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徳川秀忠が上田攻めの本陣を構えた! 小諸城二の丸|小諸市・懐古園

徳川秀忠(徳川本隊/『真田丸』では星野源が好演)が上田城攻略に難儀して関ヶ原の戦いに遅刻したのは有名な話。その上田城攻略に際して、小諸城に構えたのが二の丸の本陣です。というわけで、大河ドラマ『真田丸』の舞台のひとつとして地元・小諸市では小諸城二の丸の秀忠本陣をPRしています。

小諸城主・仙石秀久は単騎で秀忠を出迎え!

慶長5年(1600年)、天下分目の決戦「関ヶ原」に向かうべく、東軍の軍勢3万8千を率いて徳川秀忠が中山道を京に向かいます。
8月12日、父・徳川家康から「信濃を治め、木曽路へ向え・・・」との命が下り、秀忠軍は8月24日宇都宮を出発。
「信州真田表仕置の為、明二十四日令出馬候」と記された秀忠直筆の書状(野間久左衛門尉殿宛=家康の先鋒として出陣した福島正則の家臣)を小諸徴古館は所蔵しています。

上信国境の碓氷峠を越え、9月1日に軽井沢宿(現在の旧軽井沢のメインストリート)に到着。
時の城主で、小諸城を近世的な城郭に変えた仙石秀久は単騎で秀忠を出迎えます。小諸城本丸を避けて外郭に移居し、秀忠を二の丸に案内します。
二の丸に秀忠は上田城攻めの本陣を構え、海応院を宿舎としています。

「小諸城の二の丸からは、当時、北西に真田昌幸(草刈正雄)・信繁(堺雅人)の居城である上田城方面を見渡すことができました」と懐古園のガイドは解説します。
小諸が中山道と北国街道を結ぶ交通の要衝だったことも陣を構えた大きな理由です。

小諸城三の丸から二の丸への道

9月6日、秀忠は敵将・真田昌幸が籠城する上田城を包囲し、四方に火を放って攻撃します。この時、上田城を守る真田軍はわずかに3500。
10倍の戦力を持つ弱冠21歳の若武者・秀忠は上田城攻めが初陣。真田軍の攻撃に翻弄され、時間を費やします。

いろいろな理由で、家康は徳川本隊を秀忠に預けて温存し関ヶ原の戦いを迎えます。
軍監・榊原康政、本多正信、大久保忠隣などをはじめとする徳川軍の主力部隊は小諸城二の丸を本陣に、なんとか秀忠に初陣を飾らせようとやっきになっていたのです。
真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、仙石秀久は秀忠に自身を人質に出して家康の本陣に向かう様に勧めます。

海応院住職の康厳禅師の尽力で、ようやく真田軍との和睦が整い、真田攻めを諦めて、小諸から中山道を使い和田峠、諏訪を通り、木曾路を抜けて父・家康の待つ関ヶ原へ向いますが、途中豪雨に阻まれ関ヶ原に到着したときは既に戦いは東軍の勝利で終っていました。
上田合戦で秀忠は小諸城に10日間の足止めをされ、秀忠軍は「関ヶ原合戦」に遅れてしまったのです。

慶長17年(1612年)仙石秀久が築いた小諸城・大手門。上田攻めの際にはまだ築かれていません
小諸城(懐古園)
名称 小諸城(懐古園)/こもろじょう(かいこえん)
所在地 長野県小諸市丁311
関連HP 小諸市公式ホームページ
電車・バスで JR・しなの鉄道小諸駅から徒歩5分で三の門
ドライブで 上信越自動車道小諸ICから約3km
駐車場 213台/有料
問い合わせ 懐古園 TEL:0267-22-0296
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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