江戸時代、徳川幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて、大切に江戸まで運んだ行事が『お茶壺道中』、あるいは『宇治茶壺道中』です。毎年新茶の季節になると、宇治から茶葉の生育状況の報告を受け、茶壺付添人ら(8人〜14人)が茶壺ともに江戸を出発し、茶壺に茶詰めを行ない、それを江戸に持ち帰った行事です。
茶壺の運搬なのに、大名行列よりも格式が上!
江戸幕府は「宇治採茶使」(うじさいちゃし)と称する使者にお茶壺を持たせ、江戸と宇治を往復させたのです。
徳川家光の時代の寛永9年(1632年)に制度化され、寛永10年(1633年)から幕末の慶応2年(1866年)まで続けられています。
多いときは1000人を超す行列となったのですが、東海道途中の難所、大井川が春の増水で「越すに越されぬ」場合もあるので、木曽路を使う場合もありました。
一般的には往路(江戸から京へ)を東海道、帰路を木曽路という風にしていましたが、往復を別ルートにしたのは街道沿線への負担も多大だったから。
茶壺道中は五摂家(近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家)に準じる権威の高いもので、茶壺が通行する際には、大名らも駕籠を降りなければならず、街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたので、沿線には多大な負担を強いられたのです。
格式を重んじたのは、幕府の威厳を示すためだとも推測できます。
「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺におわれて どっぴんしゃん ぬけたら どんどこしょ」
という歌詞で知られる童謡『ずいずいずっころばし』は、実はお茶壺道中を風刺した歌だともいわれています。
胡麻味噌をせっせと磨っていると、そこにお茶壺道中が通りかかります。
家の中に入り戸をピシャリと閉めてやり過ごします・・・という歌なのです。
「ぬけたら どんどこしょ」というのは、通り抜けたら・・・の意。
「俵のねずみが米食ってちゅう」という2番の歌詞は、息を潜めた家の中の様子。
子供たちもお茶壺道中が通り抜けるまでは、そっと家の中で息を潜めていたので、ねずみの音が耳に入ったというわけなのです。
実はこの新茶、直接江戸には届かず、甲州・谷村(こうしゅう・やむら=現在の山梨県都留市谷村)の勝山城にあった「富士の風穴」で夏を越し、茶室の炉開きの11月まで大切に保存されていました。
寛永10年(1633年)に始まった「お茶壺道中」は、幕末まで235回を数えています。
江戸時代の最盛期、36軒あった宇治茶師は現在では上林春松家1軒のみで、宇治市の「上林記念館」でその歴史が紹介されています。
江戸時代中期以降、お茶壺道中で運ばれた宇治茶は江戸城の富士見櫓に収められています(『御茶壺江戸着御宝蔵江入組頭請取図』による)。
ちなみに6月に長野県塩尻市で行なわれる『奈良井宿場祭』のメインイベントは、お茶壺道中の再現になっています。
徳川家康の大御所時代には、駿府からもお茶壺道中があり、毎年10月に『駿府お茶壺道中行列』として再現されています。
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