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【知られざるニッポン】vol.56 北九州に藩主・小笠原忠真が伝えた「ぬか漬け」

ぬか漬け

信州松本城主・小笠原忠真(おがさわらたださね)は、寛永6年(1636年)に細川忠利に代わって小倉藩に移封されていますが、そのときに信州から北九州・小倉にもたらした食文化が、「ぬか漬け」。江戸時代、大名の転封で、食文化が変るという典型例が、北九州にはあるのをご存知ですか?

小倉の郷土料理「ぬか炊き」のルーツ!?

鯖のぬか炊き

まずは、小笠原忠真(おがさわらたださね)がどんな人物だったのかの紹介を。
小笠原忠真の母は、徳川家康の長男・信康と、織田信長の娘・徳姫の間に生まれています。
つまり小笠原忠真は徳川家康、織田信長のひ孫ということに。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川方として奮戦し、家康は「鬼孫」と呼んで信頼を置いたのです。
小笠原忠真は信濃・松本藩、播磨・明石藩を経て、寛永9年(1632年)、豊前小倉15万石の藩主となっていますが、その目的は山陽道へと通じる小倉で九州の外様大名を監視する「九州御目付」。

もともとは、天文17年(1548年)、小笠原忠真の祖父・小笠原貞慶(おがさわらさだよし)が塩尻峠の戦いで、信州侵攻を図った武田信玄に敗戦した際、信玄が兵糧として味噌を大切にしていたことに感激し、ぬか味噌料理を取り入れたという伝承もありますが、定かでありません。
実際に信州(長野県)、甲州(山梨県)を取材すると、現在では明らかに信州のほうがぬか漬けが盛んなので、この伝承は少し眉唾(まゆつば)の気もします。
さらに、信玄の「陣立みそ」は大豆を発酵させたもので、ぬか味噌とは異なります。

小倉に転封となった小笠原忠真は、自慢のぬか床を小倉に持ち込んだとされ、小倉では、信州とは異なり(信州では大根、白菜などをぬかに漬け込みます)、青魚をぬかに漬け込むことにした・・・、と伝えられています。

こうして生まれたのが、青魚をぬか味噌(ぬか床)で炊き込んだ、小倉の郷土料理「ぬか炊き」というわけです。

ただし、小笠原忠真入封前、細川忠利と中津城に隠居した細川忠興の間で交わされた書簡にも「ぬか味噌一桶給り」と記され、忠利からぬか味噌が送られたことがわかります。
小倉藩の初代藩主となった細川忠興は、それ以前は、丹後国宮津城主。
実は、丹後国のへしこ(青魚に塩を振って塩漬けにし、さらに糠漬けにした郷土料理)を細川忠興が小倉に持ち込み、「ぬか炊き」のルーツとなったとも推測できるのです。
それが証拠に、細川忠興から忠利への書状に「鰯ひしこ」(「鰯へしこ」のことかは不明)が記述されているのです。

小笠原家なのか、細川家なのかは、今となっては謎ですが、いずれにしろ、小倉に「腐らない仕組みを持っているぬか床」が、大名の転封でもたらされ、小倉のぬか漬け文化が生まれたということがわかるのです(「腐らない仕組みを持っているぬか床」に関しては、石崎文彬九州大学名誉教授の研究によって明らかになっています)。

 

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