キャンディーズのヒット曲『春一番』のイメージで、南から吹くそよ風のように思われている春一番ですが、実は春先に吹く恐ろしい暴風(南風)。実はこの春一番という言葉が定着したのは昭和39年頃ですが、ルーツは53人の漁師が命を落としたという江戸時代の壱岐島の海難事故にあるのです。
民俗学者・宮本常一の調査で有名に
長崎県壱岐市郷ノ浦町、郷ノ浦港のすぐ西、本居浦八幡崎に「春一番の供養塔」といわれる石塔が立っています。
正式名は「五十三淂脱之塔」(ごじゅうさんとくだつのとう)。
安政六未年二月十三日と刻まれていることから、安政6年2月13日(1859年3月17日)の海難事故の悲惨さを今に伝える塔だとわかります。
淂脱とは、仏教用語で得脱(生死の苦界から脱して、菩提に向かうこと=死ぬことでこの世の苦しみから解放されること)のことで、海難事故のため、あえて「淂」という字を当てたのだと推測できます。
壱岐島の漁師たちは、早春に吹く南からの暴風を「春一番」、あるいは「春一」、「カラシ花落とし」と呼んで恐れていましたが、あいにくその日は快晴で出漁日和だったのです。
五島沖にある延縄漁(はえなわりょう)の好漁場だった喜三郎曽根へと、月に一度か二度、天候を見定めて遠出していましたが、遠くに黒雲が立つのを見て、延縄を切り捨て、一目散に帰路に着いたのですが、小山のような波に襲われて沈没、53人の漁師が亡くなったのです。
『旅と伝説』(三元社)昭和12年12月号で、郷ノ浦の目良亀久は、「壹岐島漁村語彙」として、「その春の一番最初に吹く烈南風を春一番といって、この風が吹き通るとそれからは風が大変やわらかになるという。春一番はヂバエ(南南東の風)、マバエ(南風)が多く、カラシバナオトシ(菜種の花を咲ぎおとす風)と同じである」と解説しているので、壱岐が「春一番」という言葉のルーツのひとつであることは間違いなく(石川県能登地方や三重県志摩地方では昔から春一番という言葉が使われていました)、それが西日本に広まっていきました。
昭和34年に出版された『俳句歳時記』(平凡社)に編者として関わっていた民俗学者・宮本常一(みやもとつねいち)は、「春一番(仲春)【解説】壱岐で春に入り最初に吹く南風をいう。この風の吹き通らぬ間は、漁夫たちは海上を恐れる。(宮本常一)」と解説。
宮本常一は、昭和25年・26年におこなわれた八学会連合(昭和26年は九学会連合)の対馬総合調査に参加した際、壱岐・対馬を訪れていますが、この時、春一番という言葉と悲惨な海難事故を知ったのだと推測できます。
昭和38年2月15日の朝日新聞朝刊に「春の突風」という記事があり、このなかで「春一番」という言葉が使われたのが新聞、報道機関での最初の使用。
このことから2月15日が「春一番名付けの日」とされていますが、あくまでも新聞上で記載された日にすぎません。
その後、昭和39年頃から、各報道機関が「春一番」という言葉を使うようになっています。
その後、春一番がメディアで一般に使われるようになったため、気象庁は、言葉を定義する必要性に迫られます。
現在では、気象庁は、立春から春分の間、日本海に低気圧があり、東京の場合は最大風速8m以上で、西南西〜東南東の風、前日より気温が高い場合に「春一番」を宣言するように定義しています(北日本と沖縄を除く、各地域で発表され、北陸では最大風速10m以上、九州北部では最大風速7m以上と、条件は地域ごとに少し違います)。
気象庁が定義するまで、この南からの暴風は、「南の強風」、「春を呼ぶ嵐」などバラバラに表現されていたのです。
ちなみに、昭和51年3月1日に発売されたキャンディーズの9枚目のシングル『春一番』(作詞・作曲・編曲:穂口雄右)の大ヒットで、恐ろしい暴風のイメージから、待ち遠しい春を感じさせるイメージへと変貌していますが、もともとは、壱岐の漁師が恐れた、暴風であることを「春一番の供養塔」は今に伝えているのです。
壱岐市郷ノ浦港入口の元居公園には、船の形をした「春一番の塔」(昭和62年建立/TOPの画像)も立てられています。
【知られざるニッポン】vol.60 春一番のルーツは、壱岐の海難事故にある! | |
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