武田信玄の軍師として知られる智将・山本勘助(やまもとかんすけ)。
実は、富士山の麓、富士宮の出身だという。地元には数々の「証し」も残されています。
駿河に残る勘助伝説
武田信玄ゆかりの地や城には、勘助井戸やら、勘助築城という伝承が残されています。
たとえば久能山東照宮には山本勘助が掘ったとされる「勘助井戸」があります。
実は久能山東照宮が建立される以前、久能山には久能城という城が築かれていました。
久能城は、永禄11年(1568年)12月、信玄の駿河侵攻以降に築かれた城です。
当然井戸もそれ以降に掘られたはずですが、山本勘助は永禄4年(1561年)9月10日、川中島の合戦で戦没していることになっているので、死後7年もたってから掘られたことになってしまいます。
「こんな山上にスゴい井戸を掘ったわけなので、いつごろからかはわかりませんが勘助が掘ったといわれるようになった」(久能山東照宮の話)というのが真相です。
山本勘助は実在したのでしょうか?
甲州流軍学の聖典といわれる『甲陽軍鑑』(原書は存在しないので設立年代不明。高坂弾正が勝頼の時代に武田家の行く末を案じて口述したものと推定されています)には、三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出と記載されています。
元禄11年(1698年)に成立いた軍学書『北越軍談』には、三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出と記載。
地元では、八名郡賀茂村(現・豊橋市賀茂町)に生まれ、宝飯郡牛窪の大林勘左衛門(牛窪城主牧野氏の家臣)の養子となったとされ、豊橋市賀茂町の本願寺近くには「山本晴幸生誕地」碑も立っています。そして本願寺は山本家の菩提寺です。
幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた『名将言行録』には近江神崎郡山本村の人なりと記され、滋賀県東近江市五個荘山本町出身ということになっています。
山本勘助の出生に関しては諸説あるだけでなく、当時の記録に登場する古文書がないため、実在すら疑問視されてきました。
平成20年代になって旧高崎藩士沼津山本家文書、真下家所蔵文書によって山本菅助(古文書には「菅助」と記されています)が実在したこと、武田家滅亡後は徳川家康に仕えたことが判明したのです(ただし軍師だということや、『風林火山』のような活躍は不明です)。
勘助は富士宮市山本生まれ!?
そんな謎の多い山本勘助ですが、江戸時代後期成立の『甲斐国志』では、駿河国富士郡(ふじごおり)山本村(静岡県富士宮市山本)の出身と記されています。
『甲斐国志』や、富士宮の伝承を総合すると、山本勘助(幼名=吉野源助)は明応2年(1493年)、富士郡山本村の吉野貞幸と安女(やすめ)の三男として生誕。
父は軍学の師範だったことが軍師への道を開いたのだとか。
永正3年(1506年)、吉野家の所領があった三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の大林勘左衛門(牛窪城主牧野氏の家臣)の養子となります。
20歳の時に大林家に実子が誕生したため、諸国放浪の旅に出て、天正12年(1543年)、51歳の時に信玄に召し抱えられます。
当時の駿河・遠江守護は今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)で、三河国には牧野氏に命じて吉田城(現・愛知県豊橋市)も築いているので、その家臣である吉野家の所領が三河国の東端にあったことは容易に想像ができます。吉野家の直接的な主は葛山(かつらやま)氏ですが、葛山氏は当時、今川氏に仕えていました。
富士宮市山本、高原台地の麓に、山本勘助が生まれたといわれる吉野家は今も現存しています(往時の建物は残っていません)。
吉野家の丑寅の方角、鬼門にあたる部分に山本八幡宮が鎮座しています。
現在も子孫が暮らす吉野家の長屋門のすぐ左手に、「山本勘助誕生地」の碑が建てられています。この碑は、大正13年に、昭和天皇御成婚を記念して大宮町山本の青年団が、県の補助を受けて建立したもの。
また、『竹取物語』ゆかりの地でもある富士市比奈の医王寺は、吉野家から分家した比奈山本家の菩提寺で山本家の墓地の中には、勘助の祖父貞久と勘助の墓碑が残されています。
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