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阿武山古墳に眠るのは藤原鎌足! 最新の画像解析でほぼ確定

阿武山古墳

大阪府高槻市と茨木市にまたがる阿武山(標高280.9m)の中腹、標高210mの尾根上に築かれた7世紀末頃の古墳が、阿武山古墳(あぶやまこふん)。昭和9年、京都帝国大学の地震観測施設建設の際に偶然発見された古墳で、埋葬された人物は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)ではないかと目されています。

最新の画像解析で、藤原鎌足であることがほぼ確実に

古墳には盛土がなく、幅2.5mの浅い溝を直径82mの円形に配して、墓域を区画しています。
中央の墓室からは漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん=古墳時代末期に、限られた貴人に用いられた乾漆棺)が出土。
棺内からは、きらびやかな錦をまとった60歳ほどの男性の遺体が見つかっています。

発見された時代が昭和初期という世相を繁栄し、貴人の墓を暴くのはよくないということで、京都帝国大学文学部考古学教室と阿武山観測所(志田順博士)がX線撮影の後、埋め戻されています。
日本考古学にX線が利用された最初の事例ともなっていますが、このレントゲンフィルムは地震観測所で保管されていたため、昭和62年に修復されています。

近年の研究で、当時撮影されたX線写真などの解析から、男性は亡くなる数ヶ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたこと、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)、ガラス製の玉枕が未盗掘のままに添えられていたことが判明しています。

藤原鎌足は、大化の改新の中心人物で、大化の改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の基礎を築いています。
中臣氏の一族で最初は中臣鎌子(なかとみのかまこ)を名乗っていましたが、その後、鎌足に、そして藤原を名乗ったことで、藤原氏の祖となっています。

天智天皇8年(669年)10月、山科の御猟場に狩りに行った際、落馬して背中を強打、天智天皇が見舞った際に、「生きては軍国に務無し」と朝鮮半島での白村江の戦い(はくすきのえのたたかい=百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争)に貢献できないことを嘆いたと伝えられています。

天智天皇から大織冠を授けられ(大化の改新後定められた冠位制で最高の冠位ですが、実際には藤原鎌足だけお冠位です)、内大臣に任ぜられ、藤原の姓を賜った翌日に没しています(56歳)。

こうした藤原鎌足の史実と、阿武山古墳被葬者の亡くなる数ヶ月前に肋骨などを折る事故、高貴な金糸で刺繍した冠帽というX線写真の内容と一致していることがわかります。

2024年10月19日には、牟田口章人(むたぐちあきと)・帝塚山大学客員教授が最新の画像解析から棺に「大化改新」の際に定められた2種類の冠が副葬されていたことなどを奈良文化財研究所の附属機関「飛鳥資料館」(奈良県明日香村)で行なわれた特別講演会『大織冠・藤原鎌足に迫る―史跡・阿武山古墳の新事実』で発表、被葬者は大化の改新の功労者である藤原鎌足の可能性がさらに高まりました。

復元された玉枕と冠帽が飛鳥資料館にも寄贈され、見学が可能です。

阿武山古墳(中央が墓室の場所)
阿武山古墳に眠るのは藤原鎌足! 最新の画像解析でほぼ確定
名称 阿武山古墳/あぶやまこふん
所在地 大阪府高槻市奈佐原
関連HP 高槻市公式ホームページ
電車・バスで JR摂津富田駅から高槻市営バス公団阿武山・日赤病院、大阪医科薬科大学行きで、消防署前下車、徒歩30分
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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