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知立城址

愛知県知立市にある城跡で、知立神社(知鯉鮒明神)の神主である永見氏が代々城主を兼ねていた館跡。「永見氏家譜」には13代・永見貞春が、保元・平治の乱に北面の武士(朝廷側)として出陣しています。1560(永禄3)年の桶狭間(おけはざま)の戦いでは、その直前に今川義元は知立城に本陣を置いています。

今川義元が桶狭間合戦直前に陣を構えた地


永見氏が神官を務めた知立神社(知鯉鮒明神)のお札は蛇除けに霊験あらたかとして、近世から篤い信仰を集めていました。知立一帯は中世には足利幕府直轄の荘園、重原荘の一部で、永見氏は足利幕府から神領を安堵されていたのです。

戦国時代には刈谷城主の水野氏に仕え、29代の永見貞英の室は刈谷城主・水野忠政(娘に徳川家康の生母・於大の方)の娘で、その子・お万(長勝院)は家康の側室(結城秀康の生母)となっています。

今川・松平勢と織田・水野勢が対立する三河で、1547(天文16)年、今川義元の命を受けた戸田宣光により、知立神社社殿を焼失。さらに1554(天文23)年正月には、今川・松平勢により、重原城(現・知立市上重原町)が落城しています。

1560(永禄3)年5月17日(旧暦)、京を目指す今川義元は知立城に入って陣を構えます。
この時、織田信長は清洲城で、今川軍の進軍の状況を把握していました。
桶狭間で今川義元が清洲城を出陣した信長に討たれるのは2日後の5月19日のこと。

江戸時代には将軍家の休息所にも


今川義元が桶狭間で信長に討たれた後、敗走した今川軍を追った信長の攻撃を受け知立城は落城。

その後、16世紀後半に刈谷城主・水野忠重(徳川家康の叔父)が城跡に御殿を築き、江戸時代に入って増築されています。

東海道・池鯉鮒(ちりふ=知立)宿の中心にあるためその御殿は、将軍家の休息所ともなりましたが、1699(元禄12)年の地震で倒壊。

今では広場(西町児童公園)に城跡を示す碑が立つのみとなっていて地元でもかなり忘れられた存在に。
近くには、東海道時代からの名物だったという大あんまきの藤田屋の本店もあります。

知立城址
名称 知立城址/ちりゅうじょうし
所在地 愛知県知立市西町
電車・バスで 名鉄名古屋本線知立駅から徒歩10分
ドライブで 伊勢湾岸自動車道豊田南ICから約3.5km
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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