愛知県北設楽郡設楽町(したらちょう)にある奥三河における代表的な中世の山城が田峯城。城跡を整備し、物見台、本丸、大手門などを復元したのが歴史の里田峯城。田峯城は、三河と信濃を結ぶ要衝で、戦国時代には武田・今川・徳川(織田)の勢力が拮抗する地で、武田氏滅亡後、廃城に。
本丸に御殿、物見櫓、厩などを復元
田峯城は、笹頭山に中腹に建つ田峯菅沼氏の本城で、室町時代の文明2年(1470年)、菅沼定信が築城した山城。
本丸から西に御台様屋敷(みだいさまやしき)、畷曲輪(あぜくるわ)、井戸曲輪、道寿曲輪(どうじゅくるわ)、蔵屋敷、最下段には、表曲輪、裏曲輪が、東方に離れ仕置場が配されていました。
本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並が大蛇のようであることから、往時には「蛇頭城(じゃずがじょう)」という呼び名も。
徳川家康・武田信玄の対立の際、5代目城主・菅沼定忠(すがぬまさだただ)は、元亀2年(1571年)、家康に反旗を翻し、三河進行を狙う信玄に与し、三方ヶ原の戦いでは武田方で徳川軍と戦っています。
天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼を伴って、菅沼定忠は田峯城へと敗走しますが、留守居役の菅沼定直(当初から武田に付くことに反対)がなんと入城を拒絶、武田勝頼一行は、山中を抜けて苦難の末に武節城(現・愛知県豊田市武節町)まで逃げること。
翌年、城が手薄になる盆を狙って、菅沼定忠は菅沼定忠を惨殺して城を奪還しますが、天正10年(1582年)、武田氏の滅亡後、徳川家に帰参を願い出るも許されるはずがなく、牧野康成により討ち取られ、田峯城も廃城になっています。
現在では歴史公園として整備され、本丸跡に書院造りの御殿、物見櫓、厩、門(大手・搦手)が復元されています。
建物は、当時の建築方法で書院造りとして建てられていますが(形状はあくまで想像の域を出ませんが)、厩と大手門の位置は、往時とは異なっています。
三河三観音の一つで田峯城鎮護の田峰観音(築城以前には館があった場所です)や竹桑田を起点とするハイキングコースも用意されています。
山麓に田峯城駐車場もあり、搦手門から本丸へと登城。
歴史の里 田峯城 | |
名称 | 歴史の里 田峯城/れきしのさと だみねじょう |
所在地 | 愛知県北設楽郡設楽町田峯城9 |
関連HP | 設楽町観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR本長篠駅から豊鉄バス田口行きで田峯下車、徒歩15分 |
ドライブで | 新東名高速道路新城ICから約18km |
駐車場 | 15台/無料 |
問い合わせ | 歴史の里 田峯城 TEL:0536-64-5505 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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