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椎の木屋敷跡

椎の木屋敷跡

愛知県刈谷市銀座6丁目、刈谷城の北東の高台に位置し、椎の木藪とも呼ばれた場所が椎の木屋敷跡(しいのきやしきあと)。徳川家康の生母である於大の方が、天文13年(1585年)、岡崎城主の松平広忠(まつだいらひろただ=徳川家康の父)に離縁されて刈谷に戻されたとき、ここに住んでいたと伝えられています。

徳川家康の生母・於大が暮らした屋敷跡

於大の方は、享禄元年(1528年)、知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、緒川城(現・愛知県知多郡東浦町緒川)で生誕。
天文2年(1533年)に刈谷城を築き居城とした水野忠政は、岡崎の松平家との政略で、天文10年(1541年)、於大を松平広忠に嫁がせ、竹千代(後の家康)が誕生(竹千代はその後、人質として駿府の今川義元の元へ)。
水野忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・水野信元は、天文13年(1544年)、今川家と絶縁し、織田家に従ったため、於大は絶縁して刈谷城下に戻されたのです。
当時、三河は、尾張を統一しつつある織田家(織田信秀=信長の父)と、駿河国・遠江国を治め東海道を支配する今川家(今川義元)の勢力争いの最中で、大きく揺れ動いていたのです。

於大はその後、阿古居城(坂部城、現阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁していますが、刈谷城下で暮らしたとされる椎の木屋敷は、家康の生母にまつわる地として、江戸時代には一般の出入りが禁止され、出入口には鍵がかかっていました。
中央は窪地で周囲に椎の木が茂り、地蔵尊があったことから城外の霊地として崇められていたのです。

椎の木屋敷跡
名称 椎の木屋敷跡/しいのきやしきあと
所在地 愛知県刈谷市銀座6
関連HP 刈谷市公式ホームページ
電車・バスで 名鉄刈谷市駅から徒歩10分
ドライブで 伊勢湾岸自動車道豊明ICから約7km
駐車場 亀城公園駐車場(50台/無料)を利用
問い合わせ 刈谷市歴史博物館 TEL:0566‐63‐6100/FAX:0566‐63‐6108
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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