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富部神社

富部神社

名古屋市南区呼続(よびつぎ)にある清洲城主・松平忠吉(まつだいらただよし=徳川家康四男)ゆかりの神社が富部神社(とべじんじゃ)。慶長8年(1603年)、清洲城主・松平忠吉が東海道沿いの呼続に津島牛頭天王社(現・津島神社)の祭神を勧請して創建したのが富部神社。病回復のお礼に慶長11年(1606年)、社殿を創建しています。

尾張国清洲藩主・松平忠吉ゆかりの社

奥に見える本殿は国の重要文化財

慶長11年(1606年)、松平忠吉は、本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建て、神社の東に海雲山天福寺(神宮寺/神仏分離、廃仏毀釈で廃寺)を創建しています。
『尾張名所図会』には「蛇毒神社」として描かれていますが、江戸時代、蛇毒神は、牛頭天王(ごずてんのう=神仏習合の神で、 釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神)と同様に素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同体とされ、疫病退散の神として信仰されていたのです。
桃山建築の姿を伝える本殿は、国の重要文化財。

例大祭(体育の日前日)には享保12年(1727年)作の山車が公開されています。
牛頭天王を祀る津島牛頭天王社(現・津島神社)は織田家の氏神で、豊臣秀吉も信仰しました。
徳川家も那古野神社(名古屋城三の丸にあった天王社)を尊崇したように、天王社を重視したのです。

ちなみに浜松城で生まれた松平忠吉は、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷が原因で江戸で死去し、清洲藩は弟の徳川義直(清洲越しを経て尾張徳川家の始祖)が継いでいます。

星崎の塩を運んだ塩付街道の起点

東海道との分岐点

神社脇は塩付街道(しおつけかいどう)と東海道の分岐点。
塩付街道は、鳴海潟(なるみがた)や星崎沿岸(現・本星崎町一帯では製塩が盛んでした)で製造された「前浜塩」を馬の背に付けて運んだことから名づけられた道。
古出来町(こできまち)までが塩付街道で、その後、山口街道、瀬戸街道、善光寺街道などを通って尾張、美濃、信州へと運ばれました(伊那谷へと運ばれたのが中馬街道です)。
宿駅制度制定四百年記念で平成13年に立てられた「旧東海道と塩付街道の道標」が神社の東海道寄りに立っているのはそのため。

塩付街道の起点で、富部神社の建つ呼続(よびつぎ)という地名の由来は、東海道・七里の渡し(宮の渡し)の渡船の運航状況を、宮宿からの知らせを受けて、鳴海宿へと呼継(よびつぐ)のが由来といわれています。

富部神社
名称 富部神社/とべじんじゃ
所在地 愛知県名古屋市南区呼続4-13-38
関連HP 富部神社公式ホームページ
電車・バスで 名鉄桜駅から徒歩8分
ドライブで 名古屋高速3号大高線呼続ICから約1km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 富部神社 TEL:052-821-2909
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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