愛知県田原市日出町、伊良湖岬(いらごみさき)、日出の石門入口の日出園地にある歌碑が椰子の実記念碑・歌碑(大中寅二の歌碑)。島崎藤村の叙情詩「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ」で、 昭和11年、大中寅二によって作曲され、国民歌謡となった『椰子の実』は伊良湖岬が舞台です。
柳田國男が浜で拾った椰子の実が、詩に曲に!
民俗学者・柳田國男が明治31年の夏(東京帝国大学2年生の時)、伊良湖、鳥羽の神島に1ヶ月ほど滞在したときに拾った椰子の実。
実は、柳田國男は、滞在中に椰子の実が流れ寄ってきたのを三度も見ているのです。
このときのドラマチックな体験は、滞在の日記『伊勢の海』(後に『遊海島記』と改題)、後に日本人が南方から潮流に乗って島伝いに渡来したという『海上の道』執筆(昭和27年、雑誌『心』に発表)になって結実しています。
「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。
一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。
今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている『椰子の実』の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。」(柳田國男『海上の道』)
これを親友の島崎藤村(柳田國男は、民俗学者になる以前、松岡國男という名で詩作を行ない、島崎藤村とは新体詩の仲間でした)に伝えたところ、島崎藤村の『椰子の実』が生まれたのです。
明治33年、雑誌『新小説』6月号に「海草」という総題の5篇の詩の「其二」として発表されたのが『椰子の実』。
翌年、明治34年8月25日刊行の詩集『落梅集』(春陽堂刊)では独立した作品『椰子の実』として収録されています。
柳田國男が滞在したのは伊良湖岬の網元の家。
その離れを借りて、50日あまりを過ごしています。
この網元の家は今はなく、「伊良湖シーパーク&スパ」の入口に『椰子の実』発祥の地であることを記した碑が立っています。
「ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった」(柳田國男『海上の道』)というように、柳田國男が椰子の実を偶然に見つけたことから、名曲『椰子の実』が生まれたのです。
椰子の実
名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の樹は 生いや茂れる 枝はなほ 影をやなせる
我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば 新なり 流離の憂(うれい)
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らむ
椰子の実記念碑・歌碑 | |
名称 | 椰子の実記念碑・歌碑/やしのみきねんひ・かひ |
所在地 | 愛知県田原市日出町 |
関連HP | 渥美半島観光ビューロー公式ホームページ |
電車・バスで | JR豊橋駅から豊橋鉄道バス伊良湖岬行きで1時間29分、終点下車、徒歩10分 |
ドライブで | 東名高速道路豊川ICから約54km |
駐車場 | 60台/無料(大晦日〜元旦有料) |
問い合わせ | 渥美半島観光ビューロー TEL:0531-23-3516 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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