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黒田城

黒田城

愛知県一宮市木曽川町黒田にある中世の平城の跡が黒田城。鎌倉と京を結ぶ鎌倉街道沿い、美濃国との国境となる木曽川に近い要衝で、天文年間の初め(1532年以降)、岩倉城主・織田信安(織田信長の一族とは別)の家老・山内盛豊(やまうちもりとよ)が城代を務め、山内一豊は、黒田城で生まれたといわれています。

山内一豊誕生の城と伝わる平城跡

山内家の編纂する『一豊公御武功附御伝記』によれば、土佐藩主となった山内一豊は、天文14年(1545年)、この黒田城で生誕。
その後、尾張国の統一を目指す織田信長と主君・岩倉城主・織田信安(信長の父・信秀の妹が妻)、その長男の織田信賢が対立。
永禄元年(1558年)、尾張国浮野(愛知県一宮市千秋町浮野)で起きた浮野の戦い(うきののたたかい)で、織田信長は、織田信賢を撃破、岩倉城も落城し、山内盛豊や一豊は、岩倉城に逃げたとされています。
永禄2年(1559年)、織田信賢が籠城する岩倉城が落城し、山内家は離散しています。

黒田城は、その後、織田信長の支城として機能し、織田信長没後の天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、沢井雄重(さわいかつしげ=織田信雄の傅役)が羽柴秀吉の調略に応ぜず、黒田城を死守し、徳川家康から感状と太刀が、信雄から領地を賜っています。

豊臣政権下の天正18年(1590年)、織田信雄が転封を拒否して改易されたのに巻き込まれて沢井雄重も禄を失い、一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)が黒田城にはいりますが、関ヶ原合戦で東軍に与して伊勢国・神戸に5万石で加増転封、清洲52万石の城主となった松平忠吉(まつだいらただよし=徳川家康の四男)の家臣・富永忠兼が入りますが、その後廃城になっています。

遺構はほとんど現存しておらず、一宮市立黒田小学校東側の一角に城門を再現して、城跡が整備されています。
一豊顕彰会が設置した偉人を讃えた「一豊立志像」が立っており、大正6年、愛知県建立の「黒田城址」碑の碑文よれば、山内一豊は黒田城で生誕、13歳でこの地を去っています。

山内一豊は、永禄11年(1568年)頃、織田信長の配下となる、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣として、出世街道を歩み始めます。

なお、黒田城近くの法蓮寺(山内家菩提寺)に、「山内一豊公出生之地」石碑、岩倉市の岩倉城跡に近い神明生田神社にも山内一豊生誕地の石碑が立っています(山内一豊は、岩倉城で生誕とする説もあります)。

黒田城
名称 黒田城/くろだじょう
所在地 愛知県一宮市木曽川町黒田古城
関連HP 一宮市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR木曽川駅、名鉄新木曽川駅から徒歩5分
ドライブで 東海北陸自動車道一宮木曽川ICから約2km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 一宮市観光協会 TEL:0586-28-9131
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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