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田原城

田原城

愛知県田原市田原町にある戦国時代から江戸時代の平城の跡が、田原城(たはらじょう)。江戸時代には田原藩1万2000石の藩庁としても機能しました。天文16年(1547年)、城主・戸田康光(とだやすみつ)は、今川方から織田家に寝返って、今川家の人質・竹千代(徳川家康)を織田家に届けたことでも有名です。

江戸時代には田原藩の藩庁が置かれた城

文明12年(1480年)頃、三河・尾張に勢力を拡大した戸田宗光(とだむねみつ)が三河湾支配(三河湾の制海権確率)の拠点として築いたのが始まり。
戦国時代には松平氏、そして今川氏に服していました。
天文16年(1547年)、数え6歳の竹千代(徳川家康)を駿府の今川義元まで護送する役割を担っていた城主・戸田康光(家康の義母の父)は、尾張国の那古野(なごや)城主・織田信秀(おだのぶひで=織田信長の父)と通じ、金100貫文とも1000貫文ともいわれる金で買収され(大久保忠教著『三河物語』=永楽銭で千貫文、阿部四郎兵衛定次著の『松平記』=百貫文)、竹千代を海路、老津の浜から織田信秀の元へと届けています。

当然、戸田康光は今川義元の怒りを買い、田原城は今川軍の攻撃を受けて落城しています。

ただし、近年では松平広忠(徳川家康の父)が、織田家の勢力伸長を危惧し、自ら竹千代を人質に出したとする説が有力で、戸田康光の裏切り説は後世の作り話ということに。
田原城の落城も天文16年(1547年)ではなく、天文19年(1550年)頃というのが有力に。

永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で今川義元が織田信長に討たれた後、松平信康(徳川信康)は、今川家の人質生活を終え、岡崎城に帰還、田原城を攻略し、本多広孝(ほんだひろたか)が城主に、さらに天正18年(1590年)、徳川家康が関東へと移封すると吉田城に入封した池田輝政の持ち城になっています。

戦国時代に本多家、酒井家という徳川重臣が城主となったように藩政時代にも譜代大名が藩主となっています。

戦国時代につくられた土塁と空掘で囲んだ曲輪で構成

大手道側から桜門と歴史ある石垣を眺望

田原城の基本的な構造は、戦国時代につくられた土塁と空掘で囲んだ曲輪で構成され、本丸を中心に南西側に二の丸、南側に三の丸、北側に藤田曲輪、東に腰曲輪を配しています。
江戸時代には、桜門、二の丸櫓を中心に石垣や水堀が巡らされ、近世城郭に改修されています。

明治維新後に、建物は破却され、現存する建物はすべて再建。
堀を渡り、復元された桜門(大手門)を入ると、文化財収蔵庫として使われる二之丸櫓(再建)、田原市博物館、空堀、護国神社、文化12年(1815年)創建、かつての二の丸神社の後継、巴江神社があります。

桜門手前の枡池(左側)と袖池(右側)は往時のままで、桜門をくぐった先、右手が三の丸(護国神社)、左手が二の丸(田原市博物館)、真っすぐ進んだ先が本丸(巴江神社)です。
現在、駐車場になっている場所は往時には蓮池という水堀が、崋山会館・崋山神社ある場所は出曲輪でした。

三の丸(護国神社)下、袖池の石垣は田原城で最も古い石垣なので、お見逃しなく。
撮影アングルとしても袖池越しの桜門というのが定番のひとつに。
現在も大手道(田原市立田原中部小学校南側の道)から城に向かい、袖池にぶつかった曲がり角から桜門を見ると、桜門、石垣、二の丸櫓が美しく眺望され、藩政時代の雰囲気を感じることができます。

田原城城内図
田原城
名称 田原城/たはらじょう
所在地 愛知県田原市田原町巴江11-1
関連HP 田原市博物館公式ホームページ
電車・バスで 名鉄三河田原駅から徒歩15分
ドライブで 東名高速道路豊川ICから約29km
駐車場 60台/無料
問い合わせ 田原市博物館 TEL:0531-22-1720/FAX:0531-22-2028
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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