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沓掛城

沓掛城

愛知県豊明市沓掛町にある戦国時代の城跡が、沓掛城(くつかけじょう)。鎌倉往還と長久手方面との街道の交わる交通の要衝で、応永年間(1394年〜1428年)頃に築かれた平城。桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)では、今川義元が前夜にこの沓掛城に滞在し、軍議を開いたともいわれています。

城跡は沓掛城址公園として整備され、探勝に最適

徳川家康の父・松平広忠の家臣、近藤景春(こんどうかげはる)は、織田家の勢力伸長に伴って、織田家の配下となりますが、今川義元に寝返った尾張鳴海城主・山口教継とともに永禄2年(1559年)に今川義元の配下に。

永禄3年5月18日(1560年6月11日)には、西進する今川義元が沓掛城に入城、松平信康(まつだいらのぶやす=徳川家康)を先鋒に、織田軍に囲まれた大高城に物資を届けることなどを決めています。

永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の戦いで、織田信長によって今川義元が討たれると、沓掛城は織田軍が奪回、近藤景春も戦死しています。
代わって、織田軍の先陣に加わり、桶狭間の戦いで勲功一番と称された簗田政綱(やなだまさつな)が城主となっていることからも(『太閤記』などに記載)、織田軍にとっての城の重要性がよくわかります。
今川義元の本陣の場所を織田信長に伝えたのが簗田政綱で、司馬遼太郎は織田信長が情報を重視していた証だとしていますが、史書による裏付けはありません。

その後、織田信照(おだのぶてる=織田信秀の九男または十男、織田信雄の一門衆として重用)、本能寺の変後には織田信雄、豊臣秀吉に仕えた川口宗勝(かわぐちむねかつ)が城主となっていますが、関ヶ原の戦いで川口宗勝は西軍に与して所領を没収され(徳川秀忠に許されて旗本に)、沓掛城も廃城になっています。

城域は東西288m、南北234mで、本丸、二の丸、諏訪曲輪などの縄張りがありました。
大手門の跡、芝生広場となった本丸跡、二の丸跡、空堀跡、諏訪曲輪跡などが往時の縄張りのままに現存し、駐車場があるのは侍屋敷跡ということに。

沓掛城
名称 沓掛城/くつかけじょう
所在地 愛知県豊明市沓掛町東本郷11
関連HP 豊明市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 名鉄前後駅からタクシーで10分
ドライブで 伊勢湾岸自動車道豊明ICから約5km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 豊明市生涯学習課 TEL:0562-92-8317
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)、那古野城(愛知県名古屋市、後の名古屋城)を目指し駿河・遠州・三河の4万5000余の大軍で西へと進軍する今川義元に対し、尾張を統一目指していた織田信長が挑んだ合戦が、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)。織田信長の天下

大高城

愛知県名古屋市緑区大高町にある中世の平山城が、大高城(おおだかじょう)。織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で、今川方の人質だった松平元康(徳川家康)が、大高城に物資を届けたことでも知られています。国の史跡。桶狭間

 

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