愛知県豊田市小坂本町にある近世には挙母藩の藩庁が置かれた城が、挙母城(ころもじょう)。平山城ですが、三河国、尾張国、美濃国、信濃国、遠く伊賀国、伊勢国、近江国の7国を眺望できることから、七州城とも称されていました。本丸跡が豊田市美術館、城跡公園として整備され、絵図をもとに隅櫓が復元されています。
江戸時代中期以降、挙母藩の藩庁だった城
寛延2年(1749年)、上野国安中藩の第3代藩主・内藤政苗(ないとうまさみつ)は、上州から挙母の地に転封となり、藩主となった際、それまでの陣屋ではなく、挙母城の築城の計画。
2代藩主・内藤学文(ないとうさとふみ=和歌山藩主・徳川宗将の四男で、内藤政苗の養子)は、天明5年(1785年)に新城としての挙母城を完成させています。
江戸時代中期に城造りが許されたのは、1万石(遠江国と美作国の領地を合わせて2万石)ながら、譜代大名だったから。
拳母城に天守はなく、藩主の居住スペースである御殿、侍屋敷などが設けられ、。天明7年(1787年)には藩主・内藤学文が藩校「崇化館」(そうかかん)を創立するなどしています。
幕末の戊辰戦争では、新政府に対して恭順し、明治3年(1870年)、挙母藩が廃止され挙母県が誕生、その年の秋には額田県として三河国の諸藩が統合され、さらに名古屋県と合併して愛知県が誕生しています。
内藤政苗以前には、4代将軍・徳川家綱に仕えた本多忠利(ほんだただとし)、本多忠次など本多家が藩主となっているので、幕府が挙母の地を重視していたことがわかります。
挙母城 | |
名称 | 挙母城/ころもじょう |
所在地 | 愛知県豊田市小坂本町8-5-1 |
関連HP | 豊田市公式観光サイト |
電車・バスで | 名鉄豊田市駅、名鉄上挙母駅、愛知環状鉄道新豊田駅から徒歩20分 |
ドライブで | 東名高速道路豊田ICから約4km。東海環状自動車道豊田松平ICから約6km。伊勢湾岸自動車道豊田東ICから約8km |
駐車場 | 豊田市美術館駐車場(248台/無料)を利用 |
問い合わせ | 豊田市文化財課 TEL:0565-32-6561 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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