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安祥城

安祥城

愛知県安城市安城町、中世の三河国碧海郡に築かれた平山城が、安祥城(あんじょうじょう)。戦国時代に織田・松平攻防の地となり、松平広忠(まつだいらひろただ=徳川家康の父)は、駿河の今川義元に救援を求めたため、人質として竹千代(後の家康)を差し出しています。

織田氏と松平氏の攻防の地で、家康が人質となった原因の城

一帯は安祥城址公園として整備

永享12年(1440年)、三河国碧海郡を支配した和田親平(「和田氏五代」の5代目)が居館として築いたのが始まり。
文明11年7月15日(1479年8月2日)、松平信光が安祥城を攻略して松平氏の拠点となりました。
その際、活躍した酒井親清(さかいちかきよ/三河国碧海郡酒井郷、河国幡豆郡坂井郷を拠点とした酒井氏の祖)に三葵の葉の家紋を与えています(後に北条早雲との戦いの戦勝を記念し、酒井家から松平家に三葵の家紋を返上、酒井家は片喰紋に戻しています/江戸幕府の年中儀礼、格式、旧例、故事、諸士勤務の法規などを記した書物『柳営秘鑑』による)。

大永4年(1524年)、松平清康が岡崎城に拠点を移しますが、それ以降も松平氏の碧海郡支配の拠点として機能しています。

天文9年(1540年)、松平氏の内紛による弱体で、古渡城主・織田信秀が安祥城を奪取し、城代に織田信広を置いています。
天文14年(1545年)、家康の父・松平広忠は安祥城の奪還を試みますが大敗を喫し、今川義元に救援を依頼しますが、今川義元を人質として竹千代(後の家康)を要求。
天文16年(1547年)、竹千代は岡崎城から駿府(現・静岡市)の今川家へと送られるはずでしたが、その役割を担った戸田康光(とだやすみつ=渥美半島の土豪、娘の田原御前は松平広忠の妻)の裏切りにあい、尾張の織田信秀(おだのぶひで=織田信長の父)のもとに。

松平広忠病没後の天文18年(1549年)、今川方の太原雪斎(たいげんせっさい)が2万ともいわれる大軍で安祥城を攻めてついに落城させ、城代の織田信広(おだのぶひろ=織田信秀の長男、織田信長の異母兄)を捕縛。
尾張国の笠寺観音(現・名古屋市南区)で織田信広と竹千代の人質交換が行なわれ、竹千代は駿河に送られ、当時は日本三大都市ともいわれた駿府で教育を受けるのです。

安祥城は今川氏の支配下となりますが、永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で今川義元が織田信長に討たれると、人質から開放された松平元康(徳川家康)は信長と清洲同盟を結び、廃城になっています。
廃城となったのは、永禄5年(1562年)頃、松平元康の三河統一が進み、安祥城の統一の拠点、そして対織田軍という価値が薄れたためだと推測できます(織田氏が奪った際には三河進出の牙城となりましたが、同盟の定着で松平家とともに前線としての価値が消失)。

遺構は、本丸跡が大乗寺(了雲院)境内に、そして周辺が安祥城址公園として整備され、「安城市歴史博物館・安城市民ギャラリー」などが建っています。

大乗寺(了雲院)は、延徳元年(1489年)、安祥城主・松平親忠が城の鬼門除けとして創建した城でしたが、その後、織田軍の侵攻で荒廃。
江戸時代に入っても火災などにあったため、寛政4年(1792年)、岡崎城主・本多忠顕(ほんだただあき)が安祥城の城跡(本丸跡)に寺を移して復興したもの。

本丸跡には松平氏ゆかりの大乗寺(了雲院)が
安祥城
名称 安祥城/あんじょうじょう
所在地 愛知県安城市安城町赤塚2
関連HP 安城市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 名鉄南安城駅から徒歩15分
ドライブで 伊勢湾岸自動車道豊田南ICから約11km
駐車場 安城市歴史博物館駐車場(50台/無料)
問い合わせ 安城市歴史博物館 TEL:0566-77-6655
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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