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本證寺城

愛知県安城市野寺町、野寺御本坊とも呼ばれる真宗大谷派の寺が、本證寺(ほんしょうじ)。重の堀(内堀・外堀)や土塁が巡る「城郭寺院」で、三河一向一揆(みかわいっこういっき)の拠点となったことから本證寺城とも称されています。本證寺境内として国の史跡になっています。

三河一向一揆の拠点となった城郭風寺院

建永元年(1206年)頃、親鸞門侶の慶円(けいえん)が開創したという古刹で、寺伝では親鸞聖人が宿泊したこともあり、その際、天井裏まで雨漏りがしていたのに、部屋までは漏らなかったという、「雨もり御殿」の伝承も残されています。

戦国時代には三河統一を目指す松平家(松平元康=徳川家康)も地元・西三河の一向宗には手を焼いていますが、その中心となったのが三河三ヶ寺(本證寺、上宮寺、勝鬘寺)。

永禄4年(1561年)、松平元康(徳川家康)は織田信長と清洲同盟を締結、三河統一へと乗り出しますが、元康から家康と名を改めた永禄6年(1563年)には三河一向一揆が勃発。
これを平定して、三河統一を果たし、永禄9年(1566年)、徳川を名乗るようになったのです。

本證寺、上宮寺、勝鬘寺の三河三ヶ寺には、松平広忠(家康の父)の時代に「守護不入」(しゅごふにゅう)の特権を与えられていました。
大久保忠教の著書『三河物語』によれば、永禄5年(1562年)、本證寺に侵入した無法者を西尾城主・酒井正親が捕縛したため、守護不入の特権が侵害されたことを口実に、永禄6年(1563年)正月、一向一揆が勃発したのだと記されています。

三河一向一揆の起こり、最初の場所に関しては諸説ありますが、松平家に従わない豪族の吉良氏、守護不入の特権を侵害されたとする一向宗信徒、そして今川氏の残党などが岡崎城を目指して攻め寄り、松平家康(徳川家康)は窮地に陥ったのです。

本多正信、石川康正などの家臣は一向一揆側に与したため、まさに『どうする家康』という危機に陥っていますが、永禄7年(1564年)1月15日の馬頭原合戦の勝利で、和議に持ち込み、本願寺寺院の弾圧に踏み切っています。
こうした経緯から本證寺も一時は廃寺となりましたが(『三河物語』には、家康の命令により堂などの建物は破却されたと記されています)、江戸時代の初期に復興。

復興にあたっては堀も寺内の範囲を明示するために、戦国時代とほぼ同位置に再掘削されましたが、さほど深くはなく掘られたことが判明しています。
江戸時代半ばには徳川家綱の将軍就任にあわせて拝謁するなど徳川将軍家、尾張徳川家とは良好な関係を築いています。

寛文3年(1663年)再建の本堂は愛知県の文化財、鼓楼、鐘楼、経蔵、裏門は安城市の文化財に指定。
寺内(じない)と呼ばれた東西320m、南北310mの範囲に巡らされたのが外堀ですが、残念ながら大部分が地中に埋もれています。
境内の北側には土塁が残存し、往時を偲ぶことができます。

東800mに加藤嘉明の父が居城したと伝わる岩根城、南東900mに藤井松平氏の藤井城、北1.2kmに本多正信の館跡と推定されている小川的場丘城など小規模な城館があり、西三河の戦国乱世を今に伝えています。

本證寺城
名称 本證寺城/ほんしょうじじょう
所在地 愛知県安城市野寺町野寺26
電車・バスで 名鉄南桜井駅から徒歩20分
駐車場 30台/無料
問い合わせ 本證寺城 TEL:0566-99-0221
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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