千葉県松戸市大谷口、流鉄流山線・小金城趾駅の東にあるのが、小金城(大谷口歴史公園)。戦国時代、千葉氏の一族に高城(たかぎ)氏東葛飾地方を支配する拠点として築いた城で、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。城跡は公園化し、防御用の畝堀(うねぼり)、障子堀、土塁などが現存しています。
上杉軍の攻撃を退けたこともある畝堀、障子堀が現存
畝堀は、まさに田んぼの畝(うね)のように格子状の細い道が底に築かれた堀で、攻め寄せる敵兵は畝状の細い道を一列になって進軍するため、鉄砲や矢の攻撃を受けやすくなり、城の防御に役に立つという仕掛けです。
障子堀は、畝堀と同様の堀ですが、網目状に区画が設けられたのが障子堀、一列に区画が並ぶのが畝堀で、大谷口歴史公園ではその違いを比較することができます。
関東周辺では、静岡県三島市の山中城(やまなかじょう=北条氏が築城した小田原城の支城)が有名ですが、北条方の小金城にも取り入れられています。
千葉氏の家臣で小金城主・高城胤辰(たかぎたねとき=母は千葉勝胤の娘)は、小田原の北条氏と手を結び、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦(だいにじこうのだいかっせん)では、所領の国府台で上杉謙信を支援する里見義堯の嫡男・里見義弘と激突。
さらに永禄9年(1566年)、本佐倉城の千葉胤富を攻めた上杉軍を北条氏の援軍を得て撃破していますが、その際に小金城も上杉軍の包囲を受けています。
天正7年(1579年)、高城胤辰は箱根に湯治に出かけるなど、北条氏政との深い関係があったことがわかります。
その子・高城胤則の代には、実質的に千葉氏は北条家に組み込まれ、北条氏の家臣的な存在に。
豊臣秀吉の小田原攻めの際にも、家臣の一部を小金城に残して小田原城に籠城。
小金城は豊臣方・浅野長政に降伏して開城し、その後廃城となっています。
高城胤則の嫡男・高城胤重(たかぎたねしげ=母は柴田勝家の養女)は預け先の飯山藩主・佐久間安政に育てられ、徳川幕府設立後、旗本になり、目付にまで昇進していますが、小金城の復興は実現していません(2人の男の子は夭逝し、廃絶)。
小金城(大谷口歴史公園) | |
名称 | 小金城(大谷口歴史公園)/こがねじょう(おおやぐちれきしこうえん) |
所在地 | 千葉県松戸市大谷口176他 |
関連HP | 松戸市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR北小金駅から徒歩15分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag