嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、熊野灘・遠州灘沖から駿河湾を震源とする巨大地震が発生。これが安政東海大地震ですが、日露和親条約締結交渉のため来日したエフィム・プチャーチンを乗せたロシア軍艦「ディアナ号」は伊豆・下田で地震による津波を受け大破、曳航途中で沈没しています。
日露和親条約締結交渉途中に安政東海大地震が発生!
ペリーに遅れること1ヵ月半後の嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、ロシアの遣日全権使節エフィム・プチャーチンは、皇帝ニコライ1世の命により旗艦「パルラダ号」以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航。
長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、幕府側の回答を待ちますが、その間にクリミア戦争(ロシア帝国と、オスマン帝国・フランス・イギリス・サルデーニャの連合軍との間で行なわれた戦争)でイギリスが極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得て、急遽、中国・上海へと移動して情報を収集。
嘉永6年12月5日(1854年1月3日)、再び長崎に来航し、幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談を行ないますが、話はまとまらず、万一アメリカなどとの通商条約を結ぶ際には、ロシアにも同じ条件で結ぶことを約束して、日本を離れています。
その後、朝鮮を経て(朝鮮王は哲宗・チョルジョン)、フィリピンのマニラに向かい、ロシア沿海州のインペラトール湾(樺太の対岸)で回航して来たディアナ号に乗り換えて嘉永7年8月30日(1854年10月21日)、箱館(現・函館)に入港。
箱館奉行が交渉を拒否したため、今度は大坂(現・大阪)に向かいますが、大坂奉行から幕府の窓口となる下田へ回航するよう要請を受け、嘉永7年10月14日(1854年12月3日)、下田に入港。
徳川幕府は下田へ長崎で交渉にあたった川路聖謨、筒井政憲らを派遣、再度、プチャーチンと交渉をもちますが、その交渉の最中の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、安政東海大地震が発生し、津波によってディアナ号が大破(プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助しています)。
プチャーチンは、艦の修理を幕府に要請、幕府は西伊豆の戸田村(へたむら/現・沼津市戸田)で修理をするので艦の回送を依頼、応急修理を施した後、石廊崎を回って戸田へと向かいますが、安政元年11月27日(1855年1月15日)、宮島村(現・富士市)沖の駿河湾で強い風波により浸水、ついに沈没してしまいます。
その後、プチャーチン一行は戸田に滞在し、「ヘダ号」と称する洋式の帆船を建造し、安政2年3月22日(1855年5月8日)ロシアに戻っています。
帰国前の安政元年12月21日(1855年2月7日)、プチャーチンはついに念願の日露和親条約の締結に成功。
プチャーチン一行が建造した「ヘダ号」の資料は、戸田にある「戸田造船郷土資料博物館」に展示されています。
富士山を美しく眺める静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」には「ディアナ号」レプリカも置かれ、「ディアナ号」の沈没の際、宮島村(現・富士)市の漁民たちが救助したという日露友好の歴史を今に伝えています。
11月4日は、ロシア軍艦「ディアナ号」が大津波で大破した日 | |
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