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「爆発的噴火」が継続する桜島に立つ「科学不信の碑」とは!?

科学不信の碑

噴火警戒レベル3(入山規制)の桜島(鹿児島県鹿児島市)は2025年5月16日(金)以降、山体が膨張した状態が続き、「爆発的噴火」が継続していますが、桜島の島内には過去の噴火の際の教訓を残した石碑が数多く立っています。中でも印象的なのが「科学不信の碑」と呼ばれる石碑です。

大正大噴火の苦い経験は、「異変あればすぐ避難せよ」

大正大噴火では溶岩流が海岸まで到達

1914年1月12日の桜島の大爆発(大正大噴火)は、20世紀以降、日本国内で起きた火山爆発では最大の噴出量があり、溶岩の流出によって大隅半島と陸続きになっています。
死者・行方不明者は、爆発に伴う地震の被害者を含めて58名という大惨事となりました。

爆発が起きた大正時代には、近代的な火山観測体制が確立されていませんでしたが、1888年の磐梯山大噴火の際に比べると、数多くの写真が残され、学術的な調査も行なわれ、その後の火山学の発展につながっています。

「科学不信の碑」と称される記念碑は、鹿児島市立東桜島小学校の敷地に立つ「桜島爆発記念碑」(櫻島爆發記念碑)。

大正大噴火の際にも、突然、桜島が爆発したわけではありません。
さまざまな前兆現象があり、江戸時代中期の1779年〜1782年に起きた安永大噴火(死者150余名)の伝承(井戸水が沸き立ったなど)も残っていたことから、住民達の多くは自主的に避難を断行。
鹿児島測候所は、桜島の噴火を否定したため、村長も爆発の心配はないと村民に告げ、科学を信じた知識階級は島内に踏みとどまったことで被害が拡大。

溶岩流と噴石のなか、船に乗れなかった島民は、冬の海を泳いで逃げることになり、多くの溺死者が生まれたのです。
このことを後世に伝えるため、碑面には「本島ノ爆發ハ古來歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未前ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス」と、強い教訓が刻まれ、その内容から「科学不信の碑」とも称されているのです。

気象台の責任かといえば、連携ミスが大きな原因で、前日は日曜日ということもあって気象台は気象、地質上の変化があれば報告するよう村役場に訓令を出したのに、噴火前日の報告はなし。
そのため、震災予防調査会に求めた現地調査もなしと、今に比べても危機感が欠乏していました。

「異変あればすぐ避難せよ」の教えは、東北、南海大地震の津波にも共通するものですが、地元では今も小学校での防災教育にも活用されています。
大切なことは、情報の共有、迅速な判断と避難、このことは現在にも生きる大きな教訓です。

ちなみに、こうした苦い経験を踏まえ、現在の桜島は厳しい監視体制、連絡システム、避難ルートの確保などが構築されています。

大正大噴火の様子(鹿児島市街地で撮影)
「爆発的噴火」が継続する桜島に立つ「科学不信の碑」とは!?
所在地 鹿児島県鹿児島市有村町891
場所 桜島爆発記念碑(櫻島爆發記念碑)
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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