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森鴎外旧居

森鴎外旧居

森鷗外(本名・森林太郎)は、明治32年6月19日、福岡県小倉町(現・北九州市小倉区)の小倉城内にあった帝国陸軍第12師団軍医部長として着任し、明治35年3月、東京の第1師団軍医部長に就くまで37歳~40歳の2年9月間、小倉に居住しています。復元された鍛冶町の家には赴任後5日目から1年半ほど暮らしています。

第12師団軍医部長として赴任した森鴎外の生活の場

鍛冶町の家では、『我をして九州の富人たらしめば』、『鴎外漁史とは誰ぞ』などを執筆、アンデルセンの『即興詩人』やクラウゼヴィッツの『戦論』の翻訳などをしています。
帰京後に書いた小説『鶏』は、この家を舞台にしたもの。

現存する建物は明治30年頃の築。
小説『鶏』には「北向の表庭は百日紅の疎な葉越に、日が一ぱいにさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いてゐる」とありますがその風情は今も健在です。

森鴎外旧居内に鴎外が記した「天馬行空」(てんばこうくう)という書が掛けられていますが、これは森鴎外が動力航空機や機械式計算機の発明家・矢頭良一(やずりょういち/明治41年に30歳で没)の早逝を悼んで遺族に贈ったもの。
森鴎外が小倉で記した通称『小倉日記』には「当国築上郡岩屋村の人矢頭良一といふもの来訪す。自ら製する所の自動算盤を出して眎し・・・」と、矢頭良一との交流を書き残し、鴎外は矢頭を東京帝大・理科大学(現・東大理学部)へ周旋しています。
矢頭の追弔会の発起人も務めた鴎外は、落胆する矢頭の父親へ「天馬行空の四字を書」して贈ったのです。

帝国陸軍第12師団司令部は明治31年、小倉城本丸跡に設置。
レンガ造りの正門が今も城内に残されています。
ちなみに帝国陸軍第12師団は、日露戦争で『坂の上の雲』にも描かれた奉天海戦にも参戦しています。

森鴎外旧居
名称 森鴎外旧居/もりおうがいきゅうきょ
所在地 福岡県北九州市小倉北区鍛冶町1-7-2
関連HP 北九州市公式ホームページ
電車・バスで 北九州高速鉄道(北九州モノレール)平和通駅から徒歩4分。または、JR小倉駅から7分
ドライブで 北九州都市高速勝山ランプから約2km
駐車場 市営勝山公園地下駐車場(500台/有料)
問い合わせ 森鴎外旧居 TEL:093-531-1604
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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