福岡県福岡市中央区、万葉時代には博多湾に突き出し、荒津山と呼ばれた景勝地、西公園内に建つ神社が光雲神社(てるもじんじゃ)。福岡藩の藩祖・黒田如水(黒田孝高、黒田官兵衛)と初代藩主・黒田長政を祀る神社。ふたりの法名、龍光院(如水)と光雲院(長政)から一字ずつとり、光雲と名付けられています。
西公園に建つ黒田如水・黒田長政親子を祀る神社
もともとは福岡城本丸の天守台の下あたりで創建されていますが、福岡城の破却と廃藩置県で警固神社近くに移転、その後、明治40年に現在の西公園に移されています。
西公園は、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈まで福岡東照宮(荒戸山東照宮)の境内地。
承応元年(1652年)、黒田騒動(江戸三大御家騒動)の当事者の2代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)が、幕府への忠誠を示す必要から東照権現(徳川家康の神号)を祀る福岡東照宮(荒戸山東照宮)を建立、明治に廃絶され、その後西公園となったのです。
光雲神社は、廃藩置県後の明治4年、最後の藩主・黒田長知(くろだながとも)が東京に移り住むことを契機に、旧藩士たちが藩祖を祀る神社として創建したもの(明治時代初期〜中期には、土佐の山内神社、久留米の篠山神社、柳川の三柱神社、大牟田の三笠神社など、全国にこうした動きがあり、数多くの藩祖を祀る神社が創建されています)。
明和6年(1766年)、6代福岡藩・黒田継高が、黒田長政を「武威円徳聖照権現」として福岡城二の丸、祈念櫓下に祠堂を創建し、祀ったのが前身。
その後、明治5年に吉祥院跡(きっしょういんあと/現・警固神社近く)に祠堂を遷すかたちで光雲神社を創建、明治40年に現社地の西公園に移されたもの。
家康を祀った東照宮が破却され、藩祖と藩主を祀る光雲神社が東照宮旧社地にという、まさに激動の明治の歴史を物語る変遷で、光雲神社の石鳥居は福岡東照宮の鳥居を活用しています。
西公園・光雲神社へと上る52段の石段も福岡東照宮時代を踏襲しています。
往時の社殿は、昭和20年6月19日の福岡大空襲で焼失し、現存する建物は昭和41年の再建。
拝殿に描かれた天井画「謡鶴」は、舞鶴の地名にちなんだめでたい丹頂鶴で、福岡市出身の日本画家・木原信(きはらしん)の作(昭和41年制作)。
お賽銭をあげて参拝すると鶴の鳴き声が聞こえるシステムに。
母里太兵衛と『黒田節』
境内には『黒田節』のモデルになった母里太兵衛(ぼりたへえ=母里友信)の銅像も立っています。
母里太兵衛は黒田家の精鋭部隊である「黒田二十四騎」のひとり。
福岡藩藩祖・黒田如水(黒田官兵衛)、初代藩主・黒田長政に従い、各戦陣で武勲を挙げています。
文禄5年(1596年)正月、黒田長政の名代として京都・伏見城下の戦国大名・福島正則邸に挨拶に行った際、福島正則から酒を勧められ、いったんは固辞するも強く勧められるので、やむを得ず大杯の酒を飲み干し、正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を正則より頂戴しています。
このエピソードが、『黒田節』に歌われているのです。
というわけで、母里太兵衛銅像の右手に持つのは名槍日本号、像の基部には、『黒田節』の歌詞(「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」)が刻まれています。
御手杵(おてぎね/東京大空襲で焼失)、本多忠勝愛用の蜻蛉切(とんぼきり/静岡県三島市の佐野美術館寄託)とともに天下三名槍に数えられる「日本号」は、福岡市博物館に収蔵保存されています。
墓所は、嘉麻市大隈町の麟翁寺(りんのうじ)。
画像協力/福岡市
光雲神社 | |
名称 | 光雲神社/てるもじんじゃ |
所在地 | 福岡県福岡市中央区西公園13-1 |
関連HP | 福岡市公式ホームページ |
電車・バスで | 福岡市営地下鉄大濠公園駅から徒歩15分 |
ドライブで | 福岡都市高速西公園ランプからすぐ。または、百道ランプから約3km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 光雲神社 TEL:092-761-1807 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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