兵庫県尼崎市にある江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎の作者、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の菩提寺として知られる日蓮宗の古刹が、広済寺。寺伝によれば天徳元年(957年)、多田満仲(源満仲)が妙見菩薩を勧請して創建、荒廃していた妙見宮を慶長年間(1596年〜1615年)に日昌上人が再興しています。
浄瑠璃・歌舞伎の作者、近松門左衛門の眠る寺
近松門左衛門は、宝永3年(1706年)、京から大坂へ住まいを移し、大坂・寺島(現在の大阪市西区千代崎)の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび逗留していました。
出入りする船頭や行商人、旅人たちから全国各地の話を聞き集め、それを題材として作品を執筆していたのです。
この尼崎屋吉右衛門こそが、広済寺を再興した日昌上人(にっしょうしょうにん)の父で(つまりは日昌上人の実家)、近松門左衛門と親しかったことから、享保元年(1716年)、近松は母の菩提を広済寺で弔い、以来、たびたび尼崎に来遊しています。
当時、広済寺の本堂裏には、「近松部屋」と名付けられた建物(仕事部屋)があり(明治末までは現存していました)、享保9年(1724年)、72歳で生涯を閉じるまで、数々の名作を書き上げたと伝わっています(母の没後、『心中天網島』、『女殺油地獄』を書き上げ、上演されています)。
近松門左衛門の墓所(国の史跡)には、近松自身がつけた戒名、妻の戒名が彫られた高さ50cmほどの緑泥片岩の墓石があり、今も参詣者が絶えません。
こうしたゆかりから、広済寺は、近松寺の名で親しまれているのです。
寺の北に隣接する須佐男神社(久々知須佐男神社)は、今でこそ須佐男命を祀る神社ですが、明治初年の廃仏毀釈、神仏分離までの神仏習合時代には、広済寺と一体化して妙見大菩薩(北辰星=北極星を中心に北斗七星を神格化したもので、多田満仲が尊崇)を祀る、妙見宮でした(神宮寺が広済寺)。
旧妙見宮にあった北辰妙見大菩薩、牛頭天王、諏訪大明神の神体は、現在、広済寺境内の妙見堂(開山堂)に日昌尊像とともに安置されています。
隣接して近松記念館があり、一帯は近松公園として整備されています。
広済寺 | |
名称 | 広済寺/こうさいじ |
所在地 | 兵庫県尼崎市久々知1-3-27 |
関連HP | 広済寺公式ホームページ |
電車・バスで | 阪急園田駅から尼崎市営バス阪神尼崎駅行きで10分、近松公園下車、すぐ。または、JR塚口駅から徒歩15分 |
ドライブで | 名神高速道路尼崎ICから約2km |
駐車場 | 6台/無料 |
問い合わせ | 広済寺 TEL:06-6491-0815 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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