広島県福山市の瀬戸内海交易で栄えた鞆の浦。壮麗な石垣の上に鞆の浦を見下ろすようにして建つのが千住院福禅寺です。山号を海岸山といい、天歴年間(947年〜957年)、空也創建と伝わる古刹。対潮楼はその客殿にあたり、元禄年間(1690年頃)の築造。江戸参府の朝鮮通信使一行をもてなすため、迎賓館としても使われました。
「日東第一形勝」額字は「世界の記憶」に!
大広間の障子を開け放して見る景色は、窓枠がちょうど額となり、まさに一幅の絵のよう。
江戸時代、李氏朝鮮から徳川幕府に派遣された朝鮮通信使は、往路、復路で必ず鞆に寄港していますが(対馬から大坂の海路に45日間を費やしています)、その際に迎賓館として使用されたのが対潮楼。
日本の漢学者や書家らは、先進の朝鮮半島の文化を吸収するため対潮楼に集まったのです。
正徳元年(1711年/将軍・徳川家宣、朝鮮正使・趙泰億、目的:家宣襲封祝賀)、朝鮮通信使の従事官・李邦彦(イ・バンオン)も、「日東第一形勝」の書を残していますが、対馬から江戸まで道のりで、ここが随一の景色と認めたということに。
延享5年(1748年/将軍・徳川家重、朝鮮正使・洪啓禧、目的:家重襲封祝賀)、正使・洪啓禧(ホン・ゲフィ=李氏朝鮮第21代国王・英祖/ヨンジョに仕えた老論派の中心人物で、韓国の時代劇にも登場)が、客殿を「対潮楼」と命名しています(韓国時代劇でいえば、英祖は『トンイ』の息子、『イ・サン』の祖父、洪啓禧は『秘密の扉』に登場)。
実はこの時、正使・洪啓禧は宿所となった福禅寺に泊まらず、船中で宿泊しています。
本堂も客殿も荒廃し、とても宿舎にできなかったのですが、正使・洪啓禧は、その荒れ果てた客殿に『対潮楼』と名付け、書にして寺に渡したのです。
寺ではその書を木版に写して使館に飾っています。
「日東第一形勝」額字、「対潮楼」額字など福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料6点(福山市の重要文化財)を含む「朝鮮通信使に関する記録」は、ユネスコ記憶遺産(Memory of the World/「世界の記憶」)に登録されています。
ちなみに「日東第一形勝」の絶景は平成20年に発売の谷村新司『いい日旅立ち C/W いい日旅立ち(インストゥルメンタル)』のCDジャケットの画像にはこの対潮楼が使われています。
対潮楼は、「いろは丸事件」で龍馬と紀州藩の交渉の場
幕末に坂本絵龍馬の海援隊が運用する「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(880トン)が衝突する日本初の蒸気船海難事故「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行なった場所にもなっています(本来は「いろは丸」側に非があったものの、坂本龍馬は紀州藩側の、本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めています)。
万国公法(国際的な海のルール)では、当時も面舵(おもかじ=右転回)で回避することが定められていましたが、「いろは丸」は取舵(とりかじ=左転回)で衝突していたのです。
それでも龍馬は万国公法の紀州藩が疎いことを念頭に、「明光丸」で「いろは丸」を鞆に曳航させ(途中で沈没)、鞆の対潮楼での交渉を主張したのです(「いろは丸」会計官・小曾根英四郎が以前から懇意にしていた廻船問屋、桝屋清右衛門の自宅を宿所にしています)。
対潮楼 | |
名称 | 対潮楼/たいちょうろう |
所在地 | 広島県福山市鞆町鞆2 |
関連HP | 福山観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR福山駅から鞆鉄バス鞆の浦行きで30分、終点下車、すぐ |
ドライブで | 山陽自動車道福山東ICから約15kmで福山市鞆の浦第1駐車場 |
駐車場 | 福山市鞆の浦第1駐車場(40台/有料) |
問い合わせ | 福禅寺 TEL:084-982-2705 |
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