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広島東照宮

広島東照宮

広島県広島市東区にある東照大権現(徳川家康の神号)を祀る神社が広島東照宮。広島藩2代藩主・浅野光晟(あさのみつあきら)は、生母である正清院(振姫)が家康の三女ということもあり、慶安元年(1648年)に東照宮を城下に創建しています。

広島城の鬼門(東北)鎮護で創建

それに先立つ寛永13年(1636年)は家康の21年神忌にあたり、3代将軍・徳川家光(光晟の母方の従兄にあたる)は日光東照宮の大造替を行ない、正保2年(1645年)には朝廷から宮号が宣下されて東照社から東照宮に改称されています(宮号=社号には大神宮、神宮、宮、神社、社などの別があり、大神宮、神宮、宮が神社よりも神格の点では上位とされる宮号、天満宮などが有名)。

東照大権現が、国家守護の「日本之神」となったことで、諸藩にも創建の気運が盛り上がり、広島藩2代藩主・浅野光晟は、広島城の鬼門(東北)鎮護という意味合いを含め二葉山の山麓に祖父・家康を祀ったのです。
原爆の熱風で往時の拝殿、中門などは焼失していますが唐門と翼廊、「御宝前、東照宮、慶安元年卯月十七日」という文字が刻まれた手水舎、神仏習合時代に東照大権現の本地仏(ほんじぶつ=本地垂迹説で、神は仏や菩薩がいろいろな姿であらわれた化身だとし、本来の姿である仏)である薬師如来が祀られていた本地堂、神に供える神饌を整えた厨房の御供所(ごくうしょ)、祭礼時に藩主が通行した脇門などが現存しています。

寛文6年(1666年)の徳川家康50年忌からは、50年ごとに、神輿渡御を伴う盛大な『通り御祭礼』が催されるようになりました。
重さ200貫(800kg)、50人で担ぐという大神輿は創建時のものが現存。
『通り御祭礼』は江戸時代後期の文化12年(1815年)を最後に一時途絶えていましたが、家康400年忌となる平成27年10月10日に200年ぶりに正式に復活しています。

外様大名ながら徳川家と縁戚にあった浅野家

浅野氏は美濃国土岐郡浅野(現・岐阜県土岐市肥田町浅野)の出身。
土岐氏の庶流で、浅野館を居館としてその地名から浅野氏を名乗っています。
織田信長、のちに木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の家臣となって出世。

浅野長政の子、浅野幸長(あさのよしなが)は豊臣の五奉行でしたが、加藤清正らとともに武断派を形成して家康に接近、石田三成と対立し、関ヶ原の合戦で東軍に与して和歌山藩を領有しています。

浅野幸長の娘・春姫(高原院)は徳川家康の九男・尾張大納言徳川義直と結婚し、徳川家と縁戚になり、その子・浅野長晟(あさのながあきら=徳川秀忠の小姓)は福島正則の改易により、安芸国広島藩に加増転封されています(明治維新まで存続)。

東照宮を建立した浅野光晟は、外様大名ながら家康の外孫であることから松平姓を許されて松平安芸守を名乗っています。
正室の満姫は、徳川家光の養女(加賀藩の第2代藩主・前田利常の三女)で、在任中にも徳川将軍家との関係を深め、その一環として広島東照宮を創建しています。

広島東照宮
名称 広島東照宮/ひろしまとうしょうぐう
所在地 広島県広島市東区二葉の里2-1-18
関連HP 広島東照宮公式ホームページ
電車・バスで JR広島駅から徒歩12分
ドライブで 山陽自動車道広島ICから約9km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 広島東照宮 TEL:082-261-2954/FAX:082-261-4686
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

広島城

広島城は、天正17年(1589年)、豊臣秀吉の五大老の一人、毛利輝元(もうりてるもと)により築城され、天守は昭和6年に国宝に指定され、城郭建築が残されていました。残念ながら原爆投下により全壊し、現在の天守は昭和33年に復元されたもの。名古屋

尾長天満宮

広島県広島市東区山根町、國前寺近くにある菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする天満宮が、尾長天満宮(おながてんまんぐう)。社殿の建つ地は、延喜元年(901年)、菅原道真が大宰府に左遷される途中、尾長山(二葉山)の麓に船を寄せた地と伝承さ

 

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