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会津藩士の墓(野付半島)

日本一長大な砂嘴(さし)、野付半島を走る道道950号野付風蓮公園線(フラワーロード)。その途中、ポンニッタイ地区にあるのが会津藩士の墓。幕末の1859(安政6)年、幕府は、東北六藩に、蝦夷地の警備を命令。会津藩は北方交易の拠点だった標津(しべつ)を担当しますが、藩士は家族を伴って標津で過酷な冬を過ごしています。

標津に陣屋を構えた会津藩士の墓

周囲は今もエゾシカ遊ぶ秘境

会津藩は西別から紋別までの領地を与えられ、1860(万延元)年、標津に藩士を派遣。
1868(慶応4)年まで開拓と北方警備にあたりました。

会津藩は1862(文久2)年、ホニコイに本営となる陣屋を建築。
函館で材木を製材し、切組をつくって、船で運んび組み立てるというもの。
『蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記』によれば、11隻の船で物資や人員を運び(予定では17棟建設)、1863(文久3)年の秋までになんとか陣屋が整ったことがわかります。
そのホニコイ陣屋には代官以下200余名の藩士が北方警備に就いています。

この陣屋があったホニコイは、現在ホテル楠(標津町南8条西1−4−1)が建つあたりと推測されています。

ロシアの南下政策に対抗し、寒さに強いという理由で北方警備を命じられた会津藩などの東北諸藩ですが、越冬など過酷の警備で多くの藩士が命を落としています。

野付半島にある会津藩士の墓は、1863(文久3)年に亡くなった会津藩士・稲村兼久とその孫、そして佐藤某の3名の墓。
右の墓には「稲村兼久之墓 同孫女之墓」と刻まれ、左の墓は半分から下の部分が欠損しているので全部は読み取れませんが、「會津 佐藤」と刻まれている部分が残されています。

会津藩士の墓(野付半島)
名称 会津藩士の墓(野付半島)/あいづはんしのはか(のつけはんとう)
所在地 北海道標津郡標津町茶志骨ポンニッタイ
ドライブで 根室中標津空港から約30km
駐車場 100m西側に駐車スペースあり(10台)
問い合わせ 標津町観光協会 TEL:0153-82-2131/FAX:0153-82-1787
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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