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安宅の関

安宅の関

石川県小松市、梯川河口の港町・安宅にあったという中世の関所跡が安宅の関(あたかのせき)。能『安宅』、歌舞伎『勧進帳』で、山伏に変装し、奥州・平泉へと落ち延びる源義経と弁慶の一行が、関守・富樫左衛門尉に見とがめられたという物語が、江戸時代から全国に知られているのが安宅の関です。

弁慶が義経を叱責する『勧進帳』の名場面はここ!

文治3年(1187年)3月、源義経一行が、兄・源頼朝に追われ、奥州・平泉の藤原氏を頼って北陸道を落ち延びる途中、安宅の関にさしかかった時、関守・富樫左衛門尉(とがしさえもんのじょう=富樫泰家)に見咎められましたが、弁慶の機智と勇気により危うく難を免れたという有名な逸話が残された地。
15世紀後半に能『安宅』は創作され、さらに歌舞伎『勧進帳』が初演されたのは、江戸時代も後期の天宝11年(1840年)のこと。
7世・市川團十郎が初演して大ブームとなったのです。

安宅の関址の石標は、安宅住吉神社の裏手、日本海に面した小高い砂丘にあり、松林に囲まれています。
一帯は園地として整備され、敷地内には歌舞伎『勧進帳』名場面の銅像や、『勧進帳』を映像で解説する「勧進帳ものがたり館」、日本海を一望にするレストハウス『安宅の関』こまつ勧進帳の里、希望者には巫女が『勧進帳』の説明を無料で行ない(昇殿参拝は有料)、全国で唯一の「難関突破」の神様を祀る、安宅住吉神社があります。

ちなみに、銅像の武蔵坊弁慶は、7代目・松本幸四郎が、富樫左衛門尉は2代目・市川左團次がモデルとなっています。
弁慶と富樫左衛門尉の像は、ハニベ巌窟院を開いた都賀田勇馬(つがたゆうま)の作品です。

事件が起きたのは安宅の関ではなかった!

能『安宅』、歌舞伎『勧進帳』で加賀国・安宅の関の逸話とされていますが、越中国(富山県)の小矢部川河口、如意の渡し(にょいのわたし)での事件だったと、『義経記』(ぎけいき)には記されています。
渡守・平権守に義経一行であることを見破られますが、武蔵坊弁慶の扇で義経を打ちすえるという機転で無事に乗船できたという話です。

この『義経記』を題材に、舞台を加賀の安宅(当時北前船の寄港地として繁栄)に移し替えたのが能『安宅』、そして後世の歌舞伎『勧進帳』で、史実としては、安宅に関所があったのかどうかも定かでありません。

南北朝時代から室町時代初期に成立したという『義経記』も、単なる軍記物、つまりは創作性が高く、実は、この如意の渡しの事件ですら、創作の可能性が高いと推測できるのです。

加賀守護として富樫泰家は実在し、歌舞伎『勧進帳』の関守・富樫左衛門尉のモデルになっていますが、富樫荘53村を本拠とし、居館は現在の石川県野々市市住吉町。
関守・富樫左衛門尉の話がフィクションである以上、富樫泰家と義経も、出会ったことはないのだろうと推測できます。

安宅の関
名称 安宅の関/あたかのせき
所在地 石川県小松市安宅町
関連HP 小松市公式ホームページ
電車・バスで JR小松駅から小松バス長崎行きで10分、関所前下車、徒歩5分
ドライブで 北陸自動車道小松ICから約2km
駐車場 100台/無料
問い合わせ 小松市観光文化課 TEL:0761-24-8076/FAX:0761-23-6404
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

ハニベ巌窟院

石川県小松市立明寺町に昭和26年、初代院主・都賀田勇馬(つがたゆうま)が開創した洞窟寺院。ハニベとは古代、埴輪(はにわ)などを制作した土部師(はにべし)のこと。つまりは、ハニベ巌窟院とは、彫塑家が開創した洞窟寺院ということに。高さ15mとい

 

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