岩手県遠野市、盛岡藩南部氏1万2000石の城下町だった遠野を紹介するミュージアムが遠野城下町資料館。柳田國男の『遠野物語』のイメージから山里の印象がある遠野ですが、寛永4年(1627年)、南部利直の命により、八戸から八戸直義(はちのへなおよし=南部直義)が入部し、明治維新まで南部氏の治世が続いています。
遠野南部氏1万2千石の城下町・遠野を解説
遠野十二郷を領有した阿曾沼(あそぬま)氏は、豊臣秀吉の奥羽仕置で没落。
阿曾沼氏の旧領・遠野は、仙台藩領と接する防衛上の拠点だったため、盛岡藩初代藩主・南部利直(なんぶとしなお)は寛永4年(1627年)、一族の八戸直義(はちのへなおよし)を八戸根城(はちのへねじょう)から遠野・横田城に転封し、名門・八戸氏はこれによって南部氏を名乗り、遠野南部氏となったのです。
当初、横田城には城代が置かれていましたが、阿曽沼氏残党による治安の悪化、仙台藩との藩境である重要性を考え、三戸南部と並ぶ有力な一族である八戸南部氏を遠野に配し、防備を固めたのです。
南部直義(遠野南部氏)は中世に阿曽沼氏が築いた横田城を鍋倉城と改称し、近世的な城郭と城下町を整備していますが、あくまでも藩ではなく、支城という位置づけ。
城下は内陸と三陸海岸を結ぶ交易の場ともなりましたが、仙台藩と接することから防御的な町割りも必要で、道路網は敵の侵入を防ぐため鉤型に整備され、入口には枡形が設けられていました。
陸奥国代として領内の独自の裁量権を有していますが、元和の一国一城令以降は、盛岡城しか城として認められないので、「遠野城下」という呼ばれ方をしていますが、あくまで鍋倉城は「居館」の扱い。
遠野城下町資料館の館内には遠野南部氏が使用した刀や甲冑、着物やかんざしなど調度品の数々、城下の商家に残された生活用具などを展示。
明治2年に廃城となった鍋倉城は現在、鍋倉公園として整備され三の丸跡には天守閣風の「なべくら展望台」が設置されている。
藩政時代の岩手県は、盛岡藩(南部藩)、盛岡藩から分かれた八戸藩、仙台藩、一関藩の4藩があり、遠野は盛岡藩領内です。
遠野城下町資料館 | |
名称 | 遠野城下町資料館/とおのじょうかまちしりょうかん |
所在地 | 岩手県遠野市中央通り4-6 |
関連HP | 遠野市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR遠野駅から徒歩8分 |
ドライブで | 釜石自動車道東和ICから約35km |
駐車場 | とおの物語の館駐車場(40台/無料)、市民センター(57台/無料)を利用 |
問い合わせ | 遠野城下町資料館 TEL:0198-62-2502 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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