香川県丸亀市本島にある江戸時代に塩飽水軍の自治が許された塩飽諸島の旧政庁が塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)。寛政9年(1797年)に建てられた塩飽諸島の政庁で、堀を巡らせ、三方を土塀で囲んでいます。現在は瀬戸内海で活躍した塩飽水軍の歴史を展示した資料館になっています。
塩飽諸島を自治した政庁が現存!
塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)は、南に向いた正面に片側番屋の長屋門を配し、敷地内には、入母屋造り本瓦葺き(むくり型)の主屋と、朱印庫、番人部屋などの付属建物が建っています。
主屋では水軍から選ばれた、650人の船方を束ねた4名の年寄り衆によって執務が行なわれていました。
勤番所の業務は、人別帳の整備、人名650人の常時確保、廻船御用、水主の差配、島中の秩序維持、漁場の支配、往来手形の発行などです。
塩飽諸島は、大名に対し人名(にんみょう)と呼ばれた年寄り衆による自治体(人名は基本的に世襲で人名株を保有し、江戸幕府の御用船方を務めました)で、人名に対して、一般の漁師などは毛頭(もうと=間人)と呼ばれていました。
博物館としての運営は、塩飽勤番所顕彰保存会が行なっていますが、所有者は今も塩飽人名650人となっているのもその歴史から(明治5年、年寄役廃止)。
朱印庫は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らから与えられた朱印状や海路図をはじめ、重要書類が保管されていた場所。
主屋と長屋門は国の重要文化財に指定されています。
専称寺には塩飽人名の年寄・吉田彦右衛門の墓があり、史跡「塩飽勤番所跡」とともに国の史跡となっています。
塩飽本島は、塩飽水軍、塩飽廻船の根拠地として、塩飽諸島のなかで最も栄えた港町で、専称寺などのある笠島地区のレトロな家並みは丸亀市塩飽本島町笠島重要伝統的建造物群保存地区(13.1ha)として保存されています。
自治制度は、豊臣秀吉への軍事協力がきっかけで始まる
もともとは、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が瀬戸内海方面を制定する際に軍事輸送に協力した塩飽衆に対し、650人分、1250石の島地の領地権を保証する朱印状を下付したことに始まる自治制度です。
天正年間(1573年〜1591年)の年寄には、宮本伝太夫、 吉田彦右衛門、真木又衛門、入江四郎左衛門が任じられているので、この4家は、中世から塩飽諸島を統治していたと推測できます。
江戸時代も形式的には大坂奉行所が差配する天領でしたが、徳川家康の朱印状により、実質的には自治体制が継続したのです。
幕府との窓口は大坂船奉行でしたが、島は人名から選ばれた年寄4人が最高機関となって統治していました。
塩飽勤番所 | |
名称 | 塩飽勤番所/しわくきんばんしょ |
所在地 | 香川県丸亀市本島町泊82 |
関連HP | 丸亀市公式ホームページ |
電車・バスで | 丸亀港から本島汽船のフェリーで35分、本島港(泊港)下船、徒歩10分 |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 塩飽勤番所 TEL:0877-27-3540 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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