薩英戦争に使われた幕末の薩摩藩の砲台跡のある鹿児島市天保山町に立つのが坂本龍馬新婚の旅碑。坂本龍馬は、寺田屋事件で負った傷を癒やすため、寺田屋事件でも助けられた薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)、西郷吉之助(西郷隆盛)の勧めで妻・おりょう(お龍)と温泉療養を兼ねて鹿児島から霧島を訪れているのです。
鹿児島・天保山から新婚旅行スタート
この鹿児島・霧島への旅が、日本最初の新婚旅行といわれています。
天保山に碑が立っているのは、大坂(現・大阪)から薩摩藩の蒸気内輪船「三邦丸」(410トン)に乗船し、小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井友実らと鹿児島に向かい、慶応2年3月10日(1866年4月24日)に鹿児島・天保山に上陸。
西郷隆盛邸、小松帯刀邸、吉井友実邸に宿泊後、3月16日に天保山湊から再び船に乗って錦江湾(きんこうわん)を浜之市湊に渡り(現在「新婚旅行渡しの地」の碑が立っています)、霧島へと向かったから。
江戸時代の天保年間(1830年〜1843年)、家老・調所広郷が甲突川を浚渫(しゅんせつ)し、さらった砂で人工の築山をしたのが天保山という名の由来。
甲突川沿いの松林の中には、調所広郷(ずしょひろさと)の像も立っている。
天保山に砲台が築かれたのは、嘉永3年(1850年)のことで、文久3年((1863年)の薩英戦争の舞台ともなった場所(薩摩藩を開国へと政策転換させたエポックメイキングな出来事)だったので、坂本龍馬もこの錦江湾防備の砲台跡(イギリス海軍の放った砲弾が火薬庫に着弾して大爆発)を目にしたことでしょう。
坂本龍馬とおりょう(お龍)の像は彫刻家・中村晋也(なかむらしんや)の作。
名称 | 坂本龍馬新婚の旅碑/さかもとりょうましんこんのたびひ |
所在地 | 鹿児島県鹿児島市天保山町13-15地先 |
ドライブで | 九州自動車道鹿児島ICから約5km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 鹿児島市観光交流局観光プロモーション課 TEL:099-216-1344 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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