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西郷南洲翁上陸記念碑

西郷南洲翁上陸記念碑

鹿児島県大島郡天城町、島西岸の平戸野港の北側、湾屋川の河口に立つのが、西郷南洲翁上陸記念碑(さいごうなんしゅうおうじょうりくきねんひ)。文久2年(1862年)、西郷隆盛が島津久光から二度目の遠島処分を受け、沖永良部島に送られる際、2ヶ月半、この地に逗留しています。

二度目の遠島で西郷隆盛が徳之島に上陸した地

西郷隆盛の遠島は、安政5年(1858年)、島津斉彬没後に京での挙兵計画が失敗した際、薩摩藩が幕府の追討から逃れるため西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させたのが1回目。
2回目は、公武合体を目指す島津久光の命で、奄美大島を出立し、鹿児島で大島三右衛門改名。
下関で待機する命を受けたものの、それに従わず大坂へ向けて出航したため、寺田屋騒動直前に捕縛命令が出て、大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島となったもの。

西郷南洲翁上陸記念碑が立っているのは、上陸地点となった湾仁屋湊で(徳之島空港の隣接地)、到着したのは、文久2年7月5日(1862年7月31日)頃と伝えられます。

徳之島では、岡前地区の松田勝伝宅に身を寄せますが(西郷隆盛謫居地の石碑が立っています)、江戸で徳之島へと流されたことを知った島津久光は、刑の軽さを叱責し、沖永良部島への遠島、さらには牢込めを命じています。

徳之島では妻・愛加那と子供2人菊次郎と生まれたばかりの菊草と対面していますが、そのさなかに沖永良部島への遠島が決まったため、奄美大島に戻っています。
徳之島への船を待つため、西郷は松田勝伝宅を離れ、島の東側にある井之川地区の奥山家に移っています。

西郷隆盛は文久3年7月2日〜7月4日(1863年8月15日〜8月17日)の薩英戦争時には沖永良部島の牢にいたことに。

西郷南洲翁上陸記念碑
名称 西郷南洲翁上陸記念碑/さいごうなんしゅうおうじょうりくきねんひ
所在地 鹿児島県大島郡天城町浅間
電車・バスで 徳之島空港(徳之島子宝空港)から徒歩15分、平土野港から徒歩25分
問い合わせ 徳之島観光連盟 TEL:0997-81-2010
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

徳之島・平土野港

鹿児島県大島郡天城町、徳之島の玄関港のひとつが、島の西岸にある平土野港(へとのこう)。クルーズ客船「にっぽん丸」も接岸できる立派な岩壁があり、奄美海運の鹿児島~喜界~知名航路(鹿児島〜喜界〜名瀬〜古仁屋〜平土野〜知名)が接岸しています。「フ

西郷隆盛謫居跡

鹿児島県大島郡天城町にある、西郷隆盛が二度目の遠島で徳之島に2ヶ月ほど滞在した西郷隆盛謫居跡(さいごうたかもりたっきょあと)。文久2年7月5日(1862年7月31日)、徳之島に上陸した西郷隆盛は、岡前(おかぜん)地区の松田勝伝宅に身を寄せ、

徳之島空港(徳之島子宝空港)

鹿児島県大島郡天城町、徳之島の西岸、日本一の海底鍾乳洞のウンブキ(浅間湾屋洞穴)近くにあるのが、徳之島空港(徳之島子宝空港)。徳之島の空の玄関口で、鹿児島県営の空港。東亜航空の場外離着陸場として整備されたのがルーツで、JAL(日本エアコミュ

西郷隆盛上陸の地碑

鹿児島県大島郡和泊町伊延、沖永良部島の北岸、東シナ海に面した伊延港に立つのが、西郷隆盛上陸の地碑。文久2年閏8月16日(1862年10月9日)、薩摩藩主・島津久光の命に背いたことで怒りを買った西郷隆盛は、沖永良部島に遠島となり、この地に上陸

 

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