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鹿屋地下壕第一電信室

鹿屋地下壕第一電信室

鹿児島県鹿屋市串良町、海軍航空隊串良基地跡にある戦争遺跡が、鹿屋地下壕第一電信室。串良基地から飛び立った特別攻撃隊員が突撃前に送る電信を受信していた地下壕で、壕内では、音声ガイダンスによるモールス信号の再現などが行なわれ、当時の雰囲気を感じ取ることができます。

特攻隊機から最後の通信を受信した電信室

鹿屋市には、戦時中、笠野原飛行場、鹿屋飛行場、串良飛行場と3ヶ所の航空基地があり、海軍の重要基地として位置づけられていました。
そして鹿屋基地から908名、串良基地から363名と日本で最も多くの特攻隊員を見送った地でもあるのです。

ミッドウェー海戦の敗北以降、日本軍の戦況は悪化し、海軍も大量に若い人を集めて、飛行予科練習生として採用。
航空基地の不足から全国に航空基地が建設されましたが、串良基地もそのひとつです。

串良航空隊は、昭和19年4月に航空機の整備・搭乗・通信等の教育をする「普通科飛行機整備術教程」を主任務として開隊し、5000人もの予科練生が訓練を行なっています。
戦況の悪化に伴って昭和20年4月6日からの菊水作戦(沖縄に来攻する連合国軍に対し特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦で、「菊水」は楠木正成の旗印)の基地となり、艦上攻撃機が中心の基地として天山や九七式艦上攻撃機が多数特攻出撃しています。

空襲を避けるため、地下に築かれた電信室。
特攻隊員は敵機に突入する寸前まで電信をこの串良基地の地下壕第一電信室に送り続け、ここで40名の電信員が特攻隊機からの電信を受信していました。
・・・・--・ ・・・・--・ 敵艦発見。これから突っ込む(モールス信号)

沖縄戦が展開する中では、航空機が不足して練習機「白菊」を特攻機として投入。
ただし、特攻をすれば通信機が無駄になるという軍上層部の判断で、通信機器を外しての特攻もあり、昭和20年5月28日の特攻(菊水八号作戦)は出撃後の天候悪化により作戦中止となりましたが、通信機を持たない4機には連絡する方法がなく、中止を知らない7名が戦死しています。

滑走路跡などを整備した串良平和公園には(公園前の2本の直線道路は、戦時中に特攻隊が飛び立った滑走路跡)、海軍串良基地から出撃し命を落とした、特別攻撃隊363名、一般攻撃隊210名の方々の御霊を祀る慰霊塔があり、毎年10月15日には、『旧海軍航空隊串良基地出撃戦没者追悼式』が行なわれています。
有田焼の陶芸家で人間国宝の井上萬二さんも終戦直前の昭和20年6月に串良航空隊に配属され、終戦を迎えた生存者の一人。

鹿屋市西原3丁目には「鹿屋航空基地史料館」があり、復元された零戦や特攻隊に関する資料を見学することができます。

航空機不足で特攻機に転用された練習機「白菊」
鹿屋地下壕第一電信室
名称 鹿屋地下壕第一電信室/かやのちかごうだいいちでんしんしつ
所在地 鹿児島県鹿屋市串良町有4963
関連HP 鹿屋市観光協会公式ホームページ
ドライブで 垂水港から約32km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 鹿屋市観光協会 TEL:0994-41-7010/FAX:0994-41-6000
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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