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全国最小の藩で、5000石の「貧乏藩」は関東に!

江戸時代には、増減はあるものの、全国にはおよそ300の藩がありました。小藩といわれた藩は、石高が1万石くらいしかなく、財政難に苦しんでいました。そんななかで、わずか5000石という小藩だったのが下野国塩谷郡喜連川(きづれがわ=現・栃木県さくら市喜連川)にあった喜連川藩です。

5000石の「貧乏藩」なのに格式は10万石という破格の扱い!

江戸時代に牛頭天王を勧請した喜連川神社

映画『超高速!参勤交代』、『超高速!参勤交代 リターンズ』の舞台となった、湯長谷藩(ゆながやはん)は、1万石〜1万5000石ほどの小藩。
財政難で参勤交代の予算が乏しいというのが題材ですが、実際にもこうした小藩は、藩士を食べさせるので精一杯で、参勤交代、江戸屋敷の出費、さらには貨幣経済の進行による米価の下落による財政難が推測できます。
正徳元年(1711年)には1万石の小藩だった安房国北条藩(現・千葉県館山市北条)で所領27ヶ村全体の農民が参加した万石騒動(まんごくそうどう)と呼ばれる農民一揆が起こっています。
失政というよりは、藩主・屋代忠位(やしろただたか)が幕府の百人組頭・大番頭などを歴任したことで、財政が悪化、職を辞して財政再建を図りますが、すでに手遅れだったのです。

1万石でもこうした財政難にあえいだのですから、わずか5000石の貧乏藩、喜連川藩も当然、藩財政は厳しいものがありました。
明治維新まで藩主を務めた喜連川家は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の次男・足利基氏(あしかがもとうじ)の後裔ということで、歴代将軍から10万石相当の国主並みの格式を与えられたため、その格式を保つ出費は莫大でした。
さらに、荒川の氾濫や、天保の大飢饉で、財政悪化は著しいものがありました。

それでも参勤交代を免除されるなどの特例を受けていたので、幕府が提供する江戸屋敷はなく、自前で上野・池之端に藩屋敷を構えていました(ただし、滞在する藩士は3名ほどと少数)。

奥州街道の喜連川宿では、東北の大藩・仙台藩が通過する際には、喜連川藩主が待ち受け、宿泊を促して、藩財政を潤すなど、涙ぐましい努力がありました。

5000石という小藩なので、城はなく、藩庁としては喜連川陣屋を構えていましたが、跡地はさくら市喜連川庁舎(旧・喜連川町役場)となっていて、駐車場の入口に模擬楼門(大手門)が築かれています。

喜連川神社は、歴代藩主尊崇の社で、神仏習合時代に尾張国の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ/現・津島神社)から牛頭天王の分霊を勧請したのが始まり。
夏の『天王祭』は江戸時代から続く歴史ある祭礼です。

龍光院は、足利尊氏の開基により創建されたと伝えられ、足利家(藩主・喜連川家)歴代の墓所があります。
寺号は、喜連川藩初代藩主・喜連川頼氏(きつれがわよりうじ)の父で、慶長6年(1601年)、喜連川で死去した足利頼純(あしかがよりずみ)の法名・龍光院殿全山機公(『喜連川判鑑』)によるもの。
14代にわたる藩主などの墓が現存し、名家・足利家(喜連川家)と喜連川藩の歴史を今に伝えています。

宿場内を流れる御用堀は、幕末に農業用水として整備されたもの。
堀というよりも農業用の水路です。

全国最小の藩で、5000石の「貧乏藩」は関東に!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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