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アイスクリーム発祥の地

アイスクリーム発祥の地

日米修好通商条約の批准書交換のために万延元年(1860年)、遣米使節がアメリカに派遣されましたが、その時随行した咸臨丸に乗船の町田房蔵が、再度渡米し、明治2年6月に横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で販売した「あいすくりん」がアイスクリームの事始め。馬車道にはアイスクリーム発祥の地のモニュメントが立っています。

町田房蔵は「氷水屋」開いて「あいすくりん」を販売

日本人で初めてアイスクリームを口にしたのは、この万延遣米使節だといわれています。
アイスクリームを口にした使節団の一員・柳川当清は、航海日記に次のように書いています。
「珍しきもの有氷を色々に染め物の形ちを作是を出す味は至てあまく口中に入るゝにたちまち解けて誠に美味なり是をアイスクリンと云」。

遣米使節に加わった町田房蔵は、その後、再度渡米。
帰国後、馬車道常磐町五丁目に「氷水屋」開いて「あいすくりん」を販売します。
原料は、生乳、砂糖、卵黄といたってシンプルなもので、現在の「カスタードアイス」に近いものと推測できます。
「あいすくりん」製造に必要な氷は、中川嘉兵衛が切り出しに成功した函館氷を使っています。
三河出身の中川嘉兵衛は、初代英国公使・オールコックのもとでコック見習いとして働くうちに、西洋の食文化の普及、流行を予感し、牛肉と牛乳の販売店を開業。
さらに函館氷の国内での供給に成功し、清国、韓国、シンガポール、インドなどへの輸出にも着手しています。

町田房蔵の馬車道でのアイスクリーム販売は、正確には「日本人としてのアイスクリームの事始め」です。

日本初のアイスクリーム販売は居留地112番のアイス・クリーム・サロン

開国で日本にやってきた外国人を含めれば、慶応元年(1865年)5月にリチャード・リズレー・カーライルが天津氷(てんしんごおり)を輸入し、横浜居留地112番(現・横浜市中区山下町112)にアイス・クリーム・サロンを開いたのが最初となります。

幕末の開港直後にはアメリカ・ボストンから天然氷をわざわざ輸入していました。
リチャード・リズレー・カーライル(Richard Risley Carlisle)は、曲馬団を率いて元治元(1864年)に来日した軽業師で興行師。
居留地では居留地102番に「ロイヤル・オリンピック劇場」(アンフィシアターが前身)を開設、ホテルなどを経営し、氷の輸入、アイスクリームの販売と幅広くチャレンジしています。

日本初の製氷工場が横浜の外国人居留地にできたのは、明治12年まで待たねばなりません。
米国人のアルバート・ウォートルスが横浜・山手184番に、日本初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」を設立しています(元町・中華街駅近くの谷戸坂入口に「機械製氷発祥の地」碑が立っています)。

本郷新制作の「太陽の母子像」を日本アイスクリーム協会が寄贈

昭和51年11月、日本アイスクリーム協会がアイスクリーム発祥記念として、馬車道に「太陽の母子像」を寄贈。
彫刻家・本郷新(ほんごうしん)による母子像で、アイスクリームの原料のミルクから、母乳で子供を育む母をイメージして制作されたもの。
設置された場所は、町田房造の「氷水店」があった場所から馬車道をはさんで向かい側となっています。

なお、日本アイスクリーム協会は、5月9日を「アイスクリームの日」と定めていますが、町田房蔵のアイスクリーム販売は明治2年6月(新暦だと7月)のため、「アイスクリームの日」とは直接関係はありません。
町田房蔵が店を開いたのが5月9日というのは俗説です。

アイスクリーム発祥の地
名称 アイスクリーム発祥の地/あいすくりーむはっしょうのち
所在地 神奈川県横浜市中区常盤町4-47
電車・バスで JR・横浜市営地下鉄関内から徒歩すぐ
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ランプから約700m
駐車場 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)など利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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