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鎌倉幕府・大蔵御所跡

鎌倉幕府・大蔵御所跡

神奈川県鎌倉市、鎌倉幕府を開いた源頼朝の邸宅が大蔵御所。鎌倉幕府・大蔵御所跡とされるのは、かつての相模国鎌倉大蔵郷で、現在の鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯。治承4年(1180年)〜承久元年(1219年)の39年間、鎌倉幕府のトップ、鎌倉殿(かまくらどの)の居館があった場所です。

清泉小学校一帯に、鎌倉幕府の政庁が!

治承4年8月17日(1180年9月8日)に伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ、8月28日、真鶴岬から安房国(房総半島)に逃れます。
房総で再起を図った源頼朝は、上総広常(かずさひろつね=房総平氏惣領家頭首)と千葉常胤(ちばつねたね=下総国の有力在庁官人)を味方につけ、10月2日に隅田川を渡河。
治承4年10月6日(1180年10月26日)、ついにかつて父・源義朝が暮らした鎌倉入りを果たしています。
早速、大庭景義(おおばかげよし)に命じて居館づくりを始めますが、源義朝の屋敷があった亀ヶ谷は手狭ということで、鎌倉の外港・六浦(むつうら=現・横浜市金沢区)との便もいい大蔵郷に大邸宅と、名馬30頭を収容できる厩(うまや)を築いたのです。
これが大蔵御所。

建物は、武家屋敷ではなく、東・西・南・北に門がある貴族の館に似た寝殿造り。
東西が南辺370m、北辺320m、南北210mの平行四辺形で、寝殿、大御所、小御所、対屋、北向御所、常御所、御所対面所、釣殿、侍所、問注所、弓学問書、進物所、厩などが配されていました。
周囲に御家人の宿館を配し、政務もこの大蔵御所で司っています。

源頼朝は、治承4年12月12日(1181年1月6日)、上総広常の館を出て、大蔵御所に入居し、建久10年1月13日(1199年2月16日)、大蔵御所で没しています。

現在、私立の清泉小学校が建つ一帯が御所の跡で、世界遺産に向けて活動が行なわれた際、一部で発掘調査も行なわれましたが、市街化が進んでいるためとくに成果をもたらしていません。
清泉小学校の敷地の西南角に「大蔵幕府旧蹟」の石碑が立っているので、それを眺めてお茶を濁すしかありません。

鎌倉幕府・大蔵御所跡
名称 鎌倉幕府・大蔵御所跡/かまくらばくふ・おおくらごしょあと
所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下3-11
関連HP 鎌倉市公式ホームページ
電車・バスで JR鎌倉駅から徒歩20分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 鎌倉市観光協会 TEL:0467-23-3050/FAX:467-22-3516
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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