神奈川県横浜市神奈川区、東高島駅一帯にある幕末の神奈川湊防備のために築かれた台場の跡が、神奈川台場跡。万延元年(1860年)、勝海舟の設計で、伊予松山藩が築造した台場。権現山(神奈川区幸ヶ谷、現・横浜市立幸ヶ谷小学校)から土砂を運んで構築しています。実戦に使われたことはありません。
「コウモリ台場」と呼ばれるのはコウモリ型の海上台場だったから
羽を広げたコウモリのような形をしていることから通称「コウモリ台場」と呼ばれていますが、実際には五稜郭のような洋風の構造。
広さは約8000坪、大砲14門が設置され、延べ30万人が築造に動員されたといわれています。
安政6年6月2日(1859年7月1日)に神奈川が開港し、明治維新後の明治4年には海軍の所有となりますが(東海鎮守府、明治17年から横須賀鎮守府)、東京湾要塞に組み込まれることなく明治32年に廃止されています。
実際には、諸外国の外交団が来日した時、外国の国王、大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を撃つだけにとどまった砲台です。
往時は海上に突き出したコウモリ型の城郭でしたが、大正時代に海神奈川信号扱所(現在のJR貨物線の東高島駅)を築くために台場周辺を埋め立てたことから、往時の雰囲気はありません。
かつて台場があった地域は、JR貨物線の線路と東高島駅に変わり、一帯は次々とタワーマンションが建設される横浜コットンハーバー地区になっています。
近年の調査で台場跡の石垣が現存することなどが判明、横浜市域唯一の台場として貴重な存在。
星野町公園(隣接地に石垣の一部が現存)を目標にアプローチすればわかりやすいでしょう。
品川台場と神奈川台場、その役割の違い
嘉永6年(1853年)、ペリーの来航で危機感をもった徳川幕府は、2ヶ月後に江川英龍の指揮により、品川台場11基の建設に取り掛かります。
最終的に6基完成した台場のうち、第三台場は公園に、第六台場は自然豊かで学術的にも貴重な史跡として海上に保全されています。
幕府は富津と観音崎を結ぶ線を最終防衛ラインと考えていましたが、水深も深いことから当初の計画を断念、江戸城に近い、品川沖に台場を築造することになったのです。
江川英龍は品川台場に先駆けて、小田原の海岸部に3ヶ所に小田原台場を築いています(西湘バイパスの工事などで現存していません)。
品川台場が江戸湾防備、つまりは江戸城を死守するという役割であったのに対し、神奈川台場は、すでに開港していた神奈川湊の付属施設としての役割が大きかったと推測できます。
ニューヨーク港に付属した台場を真似たのかもしれません。
横浜に駐留したイギリス軍も、神奈川台場の構造などを確認していますが、軍事的には対外的な抑止力というよりも、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」と大混乱した庶民に対する、幕府の治安の効果のほうが高かったと推測できます。
神奈川台場跡 | |
名称 | 神奈川台場跡/かながわだいばあと |
所在地 | 神奈川県横浜市神奈川区 西神奈川1-17-3 |
関連HP | 横浜市公式ホームページ |
電車・バスで | JR・京急東神奈川から徒歩15分 |
問い合わせ | 横浜市神奈川区総務部区政推進課 TEL:045-411-7028/FAX:045-314-8890 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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