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巨福呂坂

巨福呂坂

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の裏手、青梅聖天社から尾根を越え、建長寺に至る峠越えの道が、巨福呂坂(こぶくろざか)。現在は、小袋坂という表記ですが、かつては巨福呂坂、巨福路坂、巨福礼坂と記され、鎌倉七口(かまくらななくち)にも数えられています。国の史跡に指定。

新田義貞の鎌倉攻めで、激戦地となった山越えの道

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の貞応3年12月26日(1225年2月5日)の条に、「四境は、東六浦・南小壺・西稲村・北山内」とあり、さらに別の日の記述にも小袋坂の名があるため、朝夷奈切通(あさいなきりどおし)などと同様に3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)が命じて開削した切通だというのが通説になっています。

ただし、「山内の道路を造らる」という記述のため、山内が巨福呂坂なのかは厳密には特定されていません。
元弘3年5月18日(1333年6月30日)、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めでは、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から鎌倉侵入を開始し、堀口貞満(ほりぐちさだみつ=現在の群馬県太田市堀口町を拠点とする武将)を大将とする軍が巨福呂坂に布陣しますが、対する幕府軍は、執権・赤橋守時率いる3万の大軍が巨福呂坂一帯を守備し、突破を許しませんでした。

鶴岡八幡宮境内の西側を通り、神奈川県立近代美術館鎌倉別館から北鎌倉へと抜ける車道は、明治19年に開削されたもので、それ以前はこの巨福呂坂を使っていました。

現在は途中から私有地となっているため、通り抜けができませんが、江戸時代の庚申塔や道祖神が現存しています。
往時の切通道は、明治45年に巨福呂坂送水管路隧道の開削により、山が切り開かれ、関東大震災で壁面が崩落したため、大きく開削、昭和31年に拡幅工事が行なわれたため、大部分が失われています。
平成5年にはシェルター的な巨福呂坂洞門が完成、洞門の上あたりがかつての尾根越えの峠だったと推測できます。

巨福呂坂は、「鎌倉街道-七口切通」として文化庁の「歴史の道百選」に選定されるほか、朝夷奈切通、名越切通、化粧坂(けわいざか)とともに日本遺産「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~の構成資産にもなっています。

巨福呂坂
名称 巨福呂坂/こぶくろざか
所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下
関連HP 鎌倉市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR鎌倉駅から徒歩15分
問い合わせ 鎌倉市文化財課 TEL:0467-61-3857
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

鎌倉七口とは!?

源頼朝が鎌倉幕府を開いた、古都・鎌倉は、眼前に海、三方を山に囲まれるという天然の要害。山を超えるための7ヶ所の切通(きりどおし)が鎌倉七口(かまくらななくち=江戸時代以降の呼び名)で、「鎌倉街道-七口切通」として文化庁の「歴史の道百選」にも

 

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