幕末の文久3年(1863年)、幕府大目付調べによる、江戸時代の大名「石高ランキング」。石高は近代的な生産統計ではないため、藩の経済力そのものを示すものではありませんが、おおよその実態は把握できます。TOPは加賀百万石で、国内で唯一となる100万石オーバーの大大名(一般的には10万石以上が大大名)でした。
石高には徳川家康の深謀遠慮が隠されている!
徳川の治世では、徳川将軍家の一門の「親藩大名」、昔から徳川家(松平家)に仕えていた「譜代大名」、関ヶ原合戦を機に家臣となった外様大名(とざまだいみょう)に区分されていますが、想像以上に外様大名が上位にランクインしています。
関ヶ原合戦で、西軍に従軍したのは93大名、石高は合計560万石もあり、改易(かいえき=領地などを没収)、さらには減封(げんぽう=領地の削減)などの処分を行ない、空いた江戸から遠方の領地を徳川家康に味方した外様大名へ分け与えたため、有力な外様大名の領地がさらに増えた結果になりました。
江戸周辺、東海道、山陽道の要衝などの譜代大名、親藩大名を配置することで、遠方の外様大名の領地拡大には目をつぶり、関ヶ原合戦の功績を重視したと推測できます。
石高のTOPは加賀藩ですが、TOP10に明治維新の原動力となった薩長土肥、つまりは薩摩藩、萩藩(長州藩)、土佐藩、肥前・佐賀藩のうちの土佐藩を除く3藩が入っていることがわかります。
土佐藩は24万石で18位にランクイン。
徳川御三家のうちTOP10入りは尾張藩と紀州藩で、水戸藩は11位となっています。
実は、「老中」(ろうじゅう)や「若年寄」(わかどしより)など幕府の中枢に就くことのできる大名は譜代大名に限られていましたが、譜代大名の石高は少なめに設定。
老中の大名家でも10万石未満とされたのは、役職と名誉を与える代わりに、政権転覆の経済力が伴わないようにという考えです。
遠方に配置された外様大名は、参勤交代が大変でしたが、要職に就けない代わりに広い領地を有していました。
家康の未来を見越した深謀遠慮は、徳川の治世を長く継続させましたが、外様大名の経済力で、明治維新を迎えるのです。
単なる石高ですが、こうした家康の深謀遠慮と、近世から近代に至る歴史のダイナミズムを感じ取ることができます。
文久3年(1863年)の大名「石高ランキング」TOP10
順位 | 旧国名 | 藩名 〈藩祖〉 | 石高 | 当時の藩主 | 家格 |
1位 | 加賀国・能登国 越中国 近江国(飛び地) | 加賀藩 〈前田利長〉 | 120万石 | 前田斉泰 (まえだなりやす) | 外様 |
2位 | 薩摩国・大隅国 日向国諸県郡 | 薩摩藩 〈前田利長〉 | 72万8000石 | 島津忠義 (しまづただよし) | 外様 |
3位 | 陸奥国 常陸国(飛び地) 近江国(飛び地) | 仙台藩 〈伊達政宗〉 | 62万石 | 伊達慶邦 (だてよしくに) | 外様 |
4位 | 尾張国 | 尾張藩 〈徳川家康〉 | 61万9500石 | 徳川義宜 (とくがわよしのり) | 親藩 |
5位 | 紀伊国 | 紀州藩 〈徳川家康〉 | 55万5000石 | 徳川茂承 (とくがわもちつぐ) | 親藩 |
6位 | 肥後国(天草などを除く) 豊後国(飛び地) | 熊本藩 〈細川藤孝〉 | 54万石 | 細川慶順 (ほそかわよしゆき) | 外様 |
7位 | 筑前国 | 福岡藩 〈黒田孝高〉 | 47万3000石 | 黒田長溥 (くろだながひろ) | 外様 |
8位 | 安芸国・備後国 | 広島藩 〈浅野長政〉 | 42万6000石 | 浅野長訓 (あさのながみち) | 外様 |
9位 | 長門国 | 萩藩(長州藩) 〈毛利隆元〉 | 36万石 | 毛利敬親 (もうりたかちか) | 外様 |
10位 | 肥前国 | 佐賀藩 〈鍋島直茂〉 | 35万7000石 | 鍋島直大 (なべしまなおひろ) | 外様 |
次点 | 常陸国 下野国の一部 | 水戸藩 〈徳川家康〉 | 35万石 | 徳川慶篤 (とくがわよしあつ) | 親藩 |
江戸時代の大名「石高ランキング」 TOP10 | |
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