熊本県玉名市、明治時代に建造された干拓関連施設で国の重要文化財に指定されるのが明丑開潮受堤防(めいちゅうびらきしおうけていぼう)。明治26年に築かれた高さ5m~6m、全長1.4kmにも及ぶ石造堤防で、万里の長城のミニチュアのような雰囲気。昭和42年の国営横島干拓事業の完成まで横島町の干拓地を守った堤防です。
万里の長城を思わせる石の潮受堤防が現存
菊池川下流域では江戸時代から干拓が始まり、昭和の国営横島干拓まで75ヶ所の干拓地が築かれました。
明治維新後、許可を得れば個人による干拓が認められるようになり、明治20年〜明治30年代になると地元の有力者による大規模な干拓が行なわれるようなったのです。
それが西から順に大浜町の末広開(明治28年/坂本平次ほか=築造者不定)、横島町の明丑開(明治26年/栗崎寛太ほか6名)、明豊開(明治26年/服部運太ほか7名)、大豊開(明治35年/加藤篤ほか2名)です(複数の大地主共同による干拓)。
横島町の明丑開は、着工した明治22年が干支の「己丑」である ことにちなみ「明丑開」と名付けられたもので、堤防の完成で、88haもの農地が生み出されています。
築造者は、地元の有力者である栗崎寛太、栗原寿恵紋、宮尾尉八、坂本勘三郎、福島勉充、木村三郎、大野好麻です。
明丑開の石積みの堤防は、南の海側が1500.5m、西の明辰川側が554m、東の十番港側が502mで、排水樋門は東側に1基備えられていました。
石で積まれた上に、コンクリートの波返しが設けら、潮受堤防として現役だった頃の状態のままで現存しています。
堤防横の龍神宮は、堤防の守り神として勧請されたもの(フェンスが邪魔ですが龍神宮前から万里の長城のように眺望できます)。
戦後、食糧不足による食糧増産などを目的として国営の横島干拓事業が実施され、昭和42年に潮止工事が完了。
それにより、末広開・明丑開・明豊開・大豊開の堤防は役割を終え、その結果として、明治時代の美しい石積みの干拓堤防が保存されることになったのです。
旧玉名干拓施設・明丑開潮受堤防 | |
名称 | 旧玉名干拓施設・明丑開潮受堤防/きゅうたまなかんたくしせつ・めいちゅうびらきしおうけていぼう |
所在地 | 熊本県玉名市横島町横島 |
ドライブで | 九州自動車道菊水ICから約20km |
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