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金戒光明寺

金戒光明寺

承安5年(1175年)、法然が43歳の時、比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだ場所が金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)。法然が最初に浄土宗を布教を行なった地で、京都屈指の名刹です。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山のひとつで、江戸時代には浄土宗四箇本山(しかほんざん)に数えられていました。

徳川家康がいざという時のため、金戒光明寺を城郭風に再建!

室町末期の応仁の乱によって伽藍を焼失しましたが、織田信長、豊臣秀吉の庇護を受け、江戸時代には徳川幕府の援助を得て復興しています。

徳川家康は二条城に京都所司代を配しましたが、いざというときのために金戒光明寺と知恩院を城郭風にしています。

幕末に14代将軍・徳川家茂から京都守護職を命じられた会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が本陣を定め、藩士1000人と陣取ったのがこの金戒光明寺。

文久2(1862年)に幕府が京都の治安維持と、尊王攘夷派の一掃を目論んで作ったのが京都守護職です。
家康が築いたという「いざという時のため」という城郭風の構えは、幕末になって実を結んだのです。

当時、寺には52の宿坊があり、会津藩士駐屯のために大方丈と宿坊25を明け渡しています。
新選組も京都守護職(会津藩)の配下に置かれ、新選組の壬生の屯所(八木家、壬生寺)と黒谷本陣とは密接な連携があったのです。

広大な境内に、新選組もくぐった山門などが現存

「浄土真宗最初門」の額が懸かる山門
三重塔は国の重要文化財

昭和9年に御影堂、大方丈は焼失しましたがそのほかの堂宇は幕末のままに残されています。

現存する阿弥陀堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が再建したもので現存する堂宇のなかでは最古のもの。
阿弥陀堂には、平安時代中期の恵心僧都(えしんそうず=源信)最後の作である本尊の阿弥陀如来が納められています。
後小松天皇の「浄土真宗最初門」の額が懸かる山門は、 万延元年(1860年)に再建で、新選組もこの山門をくぐっています。

寛永10年(1633年)、2代将軍・徳川秀忠を弔うために建てられた三重塔は、国の重要文化財。
当初三重塔安置された本尊・文殊菩薩と脇士の像は運慶の作と伝えられています(現在は御影堂に安置)。
法然上人御廟所には法然上人の遺骨が納められています。
大方丈は、昭和19年の再建で、方丈庭園は、法然上人800遠忌記念で平成18年春に作庭された「紫雲の庭」。

ゴールデンウィーク、紅葉シーズンに大方丈内部の謁見の間・虎の襖絵、山門内部の特別拝観を実施しています。

山門や御影堂、女坂など、紅葉の見どころが境内各所にあり、紅葉の撮影ポイントとしても人気。
例年、紅葉の見頃は11月中旬~12月上旬頃。

熊谷直実と法然
塔頭(たっちゅう)の蓮池院(れんちいん)は、武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠とした源頼朝の御家人・熊谷直実(くまがいなおざね)ゆかりの寺。
一ノ谷の戦いでの平敦盛との一騎討ち(能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』)で、齢十七の平敦盛の首をとったことから、仏門に帰依する思いを強め(『平家物語』)、黒谷で法然と面談。
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と諭し、熊谷直実は出家して法然の弟子になっています。
法力房蓮生(ほうりきぼう れんせい)と名乗り、最初に庵を結んだ場所が蓮池院なのです。
熊谷堂と呼ばれていましたが、江戸時代に3代将軍徳川家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)が、池に蓮を植え、堂を改修して名を蓮池院熊谷堂と改称しています。

金戒光明寺 3つのチェックポイント

法然の結んだ黒谷の庵に始まる浄土宗最初の寺院
幕末に京都守護職(会津藩)が陣を構えた新撰組ゆかりの地
桜や紅葉の名所で、とくに紅葉は素晴らしい

金戒光明寺
名称 金戒光明寺/こんかいこうみょうじ
Konkai-komyoji Temple
所在地 京都府京都市左京区黒谷町121
関連HP 金戒光明寺公式ホームページ
電車・バスで JR京都駅から市バスで36分、東天王町下車、徒歩6分で三門
ドライブで 名神高速道路京都東ICから約7km
駐車場 金戒光明寺第一駐車場(有料)
問い合わせ 金戒光明寺 TEL:075-771-2204/FAX:075-771-0863
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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