天正8年(1580年)、織田信長の命で一色氏を滅ぼし、丹後を平定した長岡藤孝(後の細川藤孝)・忠興親子が、一色氏の居城跡に築城した城が田辺城。明治6年に廃城となり、その跡地に舞鶴公園が整備されています。舞鶴公園の名は、田辺城の別名、舞鶴城に由来し、現在の舞鶴市(京都府)の市名も、この舞鶴城から。
復元した城門に田辺城主の資料を展示
その後、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の際に、城主となった細川忠興は東軍・徳川家康に加勢。
前哨戦として、石田三成軍1万5000人に包囲された田辺城。
守備隊は隠居していた細川藤孝(幽斎)ほかわずかに500人。
細川幽斎は『古今和歌集』の秘事口伝の伝承者(古今伝授)でしたが、自分のみぞ知る奥義を後世に伝えるべく秘伝の書類に「いにしえも今もかはらぬ世の中にこころの種を残す言の葉」の一首を添えて後陽成天皇に献上。
その結果、古今伝授の廃絶を憂慮した後陽成天皇の勅命で52日間に渡る石田軍の包囲が解かれたのです。
細川幽斎は城内の松に「古今伝授松」の札を掛け、亀山城(現・京都府亀岡市)に逃れました。
「心種園」の名は、和歌の下の句に因んだ名前で、江戸時代に牧野氏が藩主として入城したとき、老松を見て名付けたもの。
ちなみに細川忠興の妻は、明智光秀の娘で、有名なガラシャ夫人。
戦国時代(中世)を終わらせる天下分け目の戦いに細川家も、田辺城も翻弄されていました。
平成4年に再建された田辺城城門(往時の場所とは異なる)は2階が田辺資料館となっていて、細川氏をはじめとする歴代藩主や城下町の歴史に関する資料が展示されています。
ほかにも園内には昭和15年に復興した彰古館という隅櫓のほか、細川幽斎の『古今和歌集』の口伝・古今伝授の奥義(古今集の難解な部分の解明を師弟の間に口伝すること)に由来する心種園碑などがあり、公園は春には桜の名所として市民の憩いの場となっています。
残念ながら往時の濠はすべて埋め立てられていて存在していません。
毎年5月最終日曜に『まいづる細川幽斎田辺城まつり』が行なわれています。
舞鶴公園(田辺城跡) 3つのチェックポイント
細川藤孝(細川幽斎)が築いた田辺城の跡
田辺城の石垣や復元された隅櫓がある
二の丸にある心種園も必見
舞鶴公園(田辺城跡) | |
名称 | 舞鶴公園(田辺城跡)/まいづるこうえん(たなべじょうせき) |
所在地 | 京都府舞鶴市南田辺15-22 |
関連HP | 舞鶴市公式ホームページ |
電車・バスで | JR舞鶴線・北近畿タンゴ鉄道宮津線西舞鶴駅から徒歩5分 |
ドライブで | 舞鶴自動車道舞鶴西ICから約5.6kmで市営南田辺駐車場 |
駐車場 | 市営南田辺駐車場(75台/有料) |
問い合わせ | 田辺城資料館 TEL:0773-76-7211 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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