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聚楽第

聚楽第

豊臣秀吉が平安京の大内裏(だいだいり=平安宮)のあった内野(うちの)に天正15年(1587年)に築いた政庁兼邸宅が聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)。平成4年、本丸東堀跡から金箔瓦600点余が出土し、聚楽第址の石碑が立てられています。目下、聚楽第跡を示すものはその石碑くらいです。

本丸東堀跡に「聚楽第址」の石碑が!

『聚楽第図屏風』

天正13年(1585年)、羽柴秀吉(天正14年9月9日に豊臣姓を下賜)は、朝廷から関白を任ぜられ、京の平安宮跡に、政庁・邸宅として城郭建築「聚楽第」を築きます。

関白としての威厳を示すために、諸将に用材の調達を命じ、絢爛豪華な建物が建立されたのです。
本能寺の変で織田信長が討たれたこともあり、堀を巡らせるなどの防御も図っています。

天正14年(1586年)7月〜天正15年(1587年)4月の九州平定から戻った豊臣秀吉は、政庁を大坂から京の聚楽第に移し、10月には北野大茶湯(きたのだいさのえ)を催しています。

天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇を聚楽第に招き、諸将に秀吉に忠誠を尽くすことを天皇の前で誓約させています。
その後、聚楽第の周囲には、諸将の大名屋敷が建てられています。
並行して、京の都市改造にも取り掛かり、天正18年(1590年)には天正の地割(てんしょうのじわり)と呼ばれる寺町の構築、道路網の整備を行ない、天正19年(1591年)、その仕上げとして御土居(おどい)と呼ばれる市街を取り囲む土塁を築いて防御体制を高めています。

天正19年閏1月8日(1591年3月3日)には、伊東マンショ(主席正使)、千々石ミゲル(正使)ら、天正遣欧少年使節を呼んで西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏させ、同年8月には、明国(現・中国)を攻略する足がかりとして、天下普請(てんかぶしん)で名護屋城の築城を開始。
つまり、聚楽第の完成は、豊臣秀吉の天下泰平の裏付けともいえるのです。

こうした背景から、秀吉は嫡子・鶴松の夭逝を受け、天正19年(1591年)12月、養子である豊臣秀次に関白の地位と政庁としての聚楽第を譲りますが、文禄2年(1593年)8月に側室・淀が大坂城で秀頼を産むと、状況は一変。
文禄3年(1594年)、諸将を引き連れて、吉野の花見を楽しんだ後、伏見指月城建設に着工(伏見には京の湊の役割がありました)。
ついに文禄4年(1595年)、秀吉は秀頼に謀反の嫌疑をかけ、高野山で切腹を命じ、さらに聚楽第の破却を命じています。

聚楽第に関しては、ジアン・クラセ(Jean Crasset,=フランスのイエズス会宣教師)の『日本西教史』(原題は『Histoire de l’eglise du Japon』/『日本教会史』)に「一宇も残さず、基礎にいたるまで悉(ことごとく)く毀(こぼ)たしめ」と記されるように、徹底したものだったことから、現在、遺構が残されていない原因になっています。

ことごとく更地(さらち)になったこと、その後の土地開発で遺構がまったく残らない聚楽第ですが、平成4年)、西陣公共職業安定所(現・ハローワーク西陣)の建て替え工事の際に、本丸東堀跡が発見され、金箔瓦600点余(国の重要文化財に指定)が出土。
聚楽第が破却される際、本丸の金箔瓦を東堀に捨てたものだと推測され、東堀の跡に、平成21年、「聚楽第址」の石碑が立てられています。

聚楽第
名称 聚楽第/じゅらくだい、じゅらくてい
所在地 京都市上京区中立売通浄福寺東
関連HP 京都市公式ホームページ
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

千利休聚楽屋敷跡

茶人、千利休(せんのりきゅう)が京の聚楽第(じゅらくだい)内に構えた屋敷の跡が千利休聚楽屋敷跡。豊臣秀吉が政庁兼邸宅として天正15年(1587年)に聚楽第を完成させると、千利休も屋敷を構えますが、その跡地(京都市上京区)には千利休居士聚楽屋

 

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