京都府京都市左京区、京都市上下水道局が運営するミュージアムが、琵琶湖疏水記念館(びわこそすいきねんかん)。東京奠都(とうきょうてんと)による京都の衰退を防ぐために築かれた琵琶湖と京都を結ぶ大運河運河・琵琶湖疏水の完成100周年を記念して京都市が開設したもので、平成元年8月に開館。
琵琶湖疏水の歴史、運用を今に伝えるミュージアム
京都市の近代化に大きな足跡を残した琵琶湖疏水の歴史を今に伝えるために築かれたのが、琵琶湖疏水記念館。
琵琶湖疏水記念館では、技師・田辺朔郎(たなべさくろう)の残した田辺家資料1万4872点を中心に、測量技師として琵琶湖疏水の建設に大きな役割を果たした島田道生に関する資料群148点、第1期蹴上発電所で実際に使用されていたペルトン水車など、合計2万3000点もの琵琶湖疏水に関する古文書、古写真、大型図面、美術品、ジオラマなどの貴重な資料を所蔵。
地下1階には隣接する琵琶湖疏水関連施設の蹴上インクラインに係る重要な設備であった蹴上インクラインドラム工場(鋼製のワイヤーロープを巻き上げ、舟を乗せた台車を上下させた傾斜鉄道=インクラインを操作する施設)を、屋外施設として公開しています。
第1展示室(1階)では、琵琶湖疏水がどのように計画、建設されたかについてを精密な測量図面など貴重な資料で詳しく紹介。
第2展示室(地下1階)では、大正4年頃の岡崎周辺の様子を再現した模型などを使い、琵琶湖疏水の開削で、京の町がどう変化していったかを解説。
第3展示室(地下1階)では時代とともに琵琶湖疏水の役割がどう変化していったかが分かる構成になっています(現在も京都の水道の原水となっているほか、水力発電などに使用されています)。
地下にあるテラスからは眼前に噴水を眺めることができますが、この噴水は、疏水上流の「蹴上船溜」から、管を通って流れてくる疏水の水で、36mの高低差を利用して、管の中に生じる自然の力で吹き上げています。
令和2年6月、「京都と大津を繋ぐ希望の水路 琵琶湖疏水 ~舟に乗り、歩いて触れる明治のひとと
き」が日本遺産に認定されたことをきっかけに、琵琶湖疏水沿線に残される貴重な遺構(蹴上インクライン、蹴上発電所、蹴上浄水場、ねじりまんぽ、南禅寺水路閣、哲学の道、無鄰菴、旧御所水道ポンプ室など)をフィールドミュージアムと位置づけ、その拠点施設としての機能も有しています。
京都の近代化に大きな役割を果たした琵琶湖疏水を知る
第3代京都府知事の北垣国道(きたがきくにみち)は、東京奠都で人口が減少した京都の未来を見据え、京都を復興させるための一大プロジェクトとして琵琶湖疏水を計画、着工から5年後の明治23年に第一疎水(大津〜鴨川合流点)が完成しています(伏見までは明治27年9月に完成)。
蹴上にある36mの落差を克服するインクライン(傾斜鉄道)、疏水分線の南禅寺水路閣もこの時に完成したものです。
また琵琶湖疏水の余剰水を庭に取り込み、見事な庭園を築いたのが、7代目・ 小川治兵衞(おがわじへえ)で、山縣有朋の別荘「無鄰菴」(むりんあん/明治27年)などを作庭しています。
灌漑(かんがい)、防火用水の安定的な確保、そして水力発電の利用、さらには琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運での物資・旅客輸送などが行なわれましたが、なかでも発電は、明治28年、我が国最初の路面電車(京都駅~伏見)に利用されたほか、近代的な工場誘致へと結びつきました。
明治20年代後半になると、第1疏水の流量では毎年増大する京都市中の電力供給を満たせなくなり、さらに市中の伝染病蔓延を防止する観点から、上水道の水源確保も危急の課題として浮上しました。
第2代京都市長・西郷菊次郎(さいごうきくじろう=西郷隆盛の長男で、隠棲先の奄美大島で生誕)は、京都三大事業(第2琵琶湖疏水の建設、上水道の布設、道路拡築及び市電の敷設)の実現に向けて奔走し、第2疏水はその事業の中核として明治41年に着工、明治45年に完成しています。
日本で最初の急速ろ過方式の浄水場である蹴上浄水場も明治45年に稼働し、京都に上水道を供給しています。
琵琶湖疏水記念館 | |
名称 | 琵琶湖疏水記念館/びわこそすいきねんかん |
所在地 | 京都府京都市左京区南禅寺草川町17 |
関連HP | 琵琶湖疏水記念館公式ホームページ |
電車・バスで | 京都市営地下鉄蹴上駅から徒歩7分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 琵琶湖疏水記念館 TEL:075-752-2530/FAX:075-752-2532 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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