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「日本最後の古墳」は、なんと奈良時代初期の築造

石のカラト古墳

弥生時代に続く時期区分で、「古墳が築かれた時代」が古墳時代。弥生時代の墓と古墳をどう区別するかは意見が分かれるところですが、3世紀後半から350年余りが古墳時代といえるでしょう。築造年から判明する「日本最後の古墳」は8世紀初頭に築かれた、石のカラト古墳(奈良県と京都府の県境/上円下方墳)と推測できます。

8世紀初期築造とも推測される、石のカラト古墳に眠るのは誰!?

石のカラト古墳は、奈良県奈良市神功1丁目と京都府木津川市兜台2丁目の境界に位置する「府県境古墳」。
京都府側では「風灰古墳」(かざはひこふん)とも称されています。
上円下方墳(上段が円形、下段が方形)という全国的にも数例しかない珍しい古墳で、築造年代は7世紀末~8世紀初頭、あるいは8世紀前半(奈良時代に入ってから)という2説があります。
墳丘南裾外側から奈良時代の須恵器が出土している点、そして少し離れた場所にあることから平城京との関係性を重視すると、奈良時代に入ってからの築造もあり得るのだと推測できるのです。

律令制の始まろうとする飛鳥時代に築かれた古墳を、終末期古墳と呼んでいますが、ヤマト王権の象徴たる前方後円墳はすでに築かれず(すでに中央集権国家の創始期で、王権のシンボルとしての前方後円墳を築く必要なく、巨大な古墳を築くことは禁じられていました)円墳、方墳、八角墳、上円下方墳が築かれました。

石のカラト古墳の被葬者は天武天皇の皇子とも推測され、築造されたのが和銅3年(710年)の元明天皇による平城京遷都以降なら、天武天皇の皇子で和銅8年(715年)に亡くなった長皇子(ながのみこ)、和銅8年7月27日(715年8月30日)没の第五皇子・穂積親王(ほづみしんのう)とも考えられます。

高松塚古墳、マルコ山古墳、キトラ古墳も終末期のしかも後半に築かれた古墳ですが、いずれも奈良県高市郡明日香村。
平城京に近い場所に築かれたのが石のカラト古墳だけというのは、何らかの理由があってのことだとも推測されますが、鎌倉時代に編纂された『帝王編年記』に養老4年8月3日(720年9月9日)に没した藤原不比等(ふじわらのふひと)が佐保山に埋葬という記述があるので、石のカラト古墳の被葬者でないかと考える説もあります。

興福寺を創建、養老律令の編纂作業に携わる途中で命を落とした藤原不比等なので、平城京近くに葬られたというのは、納得がいきます。
日本で最後ともいえる古墳、しかも律令時代の始まりの古墳で文献資料があるのに、残念ながら被葬者が特定されないので、ヤマト王権時代の巨大な前方後円墳の被葬者がわからないのもうなづけます。

「日本最後の古墳」は、なんと奈良時代初期の築造
所在地 奈良県奈良市神功1・京都府木津川市兜台2
電車・バスで 近鉄高の原駅から徒歩20分
ドライブで 京奈和自動車道山田川ICから1km
駐車場 近鉄高の原駅前の民営駐車場(有料)を利用
問い合わせ 奈良市文化財課 TEL:0742-34-5369
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

石のカラト古墳

奈良県奈良市と京都府木津川市の境、標高112mの奈良山丘陵の傾斜面に築かれた古墳が、石のカラト古墳。全国に6基しか確認されていない上段が円形、下段が方形の上円下方墳(じょうえんかほうふん)。昭和54年の発掘調査で、最初に見つかった上円下方墳

 

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