小田原市のマンホールには小田原城、箱根連山の山並みと富士山、輦台(れんだい)で川を渡る様子がデザインされています。城下町・小田原は東海道五十三次の江戸から数えて9番目の宿場町でもあったのです。
広重も描いた酒匂川を渡る蓮台
歌川広重の『東海道五拾三次・小田原』(保永堂版)に酒匂川(さかわがわ)の浅瀬を渡る姿が描かれています。
この浮世絵がマンホールの絵柄のモチーフです。広重の絵では、殿(しんがり)が肩車の槍持奴なので、小田原宿へ向かう武士の一団です。平蓮台で先導するのはお供(とも)の侍。対岸の裸の人たちが川越人足、宿駕籠を取り巻くのは対岸への渡河を待つ人々です。
これに対してマンホールの絵柄は島田髷(しまだまげ)を結った女性にアレンジされています。
小田原市の中央部に流れる酒匂川は、神奈川県で相模川に次ぐ大きな河川。富士山麓と箱根外輪山を主な源流として、相模湾へと注いでいます。
酒匂川は古くは渡船が行なわれていました。延宝2年(1674年)、幕府は軍事上の理由から、相模国小田原にかかる酒匂川、駿河国府中(駿府)をはさむ興津川と安倍川、駿河遠江国境の大井川の4つ河川の渡船を禁止。徒渉制(かちわたりせい)が施行されました。それにより往来は水先案内人との徒歩、肩車、輦台渡し、馬渡しのみが許されることとなったのです。川を渡るには川越人足が不可欠になり、しかも増水による川留めなどもあり、東海道五十三次道中の難所となりました。
とはいえ、水量が減る10月〜2月の冬場は「冬川」と呼んで仮橋を架けて往来したということで、さすがに富士山を源流とする酒匂川の水、冬は水も冷たく、そして水量が少なくなるため仮橋を架橋したのでしょう。
マンホールには小田原城と酒匂川の渡しの背景に、箱根外輪山から顔をのぞかせる霊峰富士の勇姿も描かれています。実際に酒匂の渡し跡からも箱根外輪山の右上にチラリと富士山が姿をみせます。
中世最大の城郭都市、小田原城
酒匂川の渡しの背景には広重の絵にもマンホールにも小田原城が描かれています。
小田原城は北条早雲をはじめとする後北条氏が、5代96年におよぶ栄華を極めました。
後北条氏は、関東支配の拠点として、周囲9kmにもおよぶ土塁と空堀の外郭を整備。中世最大の城郭都市(総構え)を築いたのでした。
中世の堅固な小田原城も、物量戦という近世的な豊臣秀吉の小田原攻めで、ついに開城、後北条家は事実上の滅亡へと導かれたのです。
慶長19年(1614)年、徳川家康はこの「総構え」と呼ばれる外郭を撤去、城の規模を縮小。後北条氏の居館部は近世城郭へと改修されました。
総石垣造りの城となりましたが、江戸時代には小田原藩の政庁として機能し、将軍上洛の際の宿にも使用されました。
明治3年に廃城となり天守閣は解体され、ほとんどの建物を破却。
それでも、昭和13年、遺構が残る小田原城址は、二の丸・三の丸の一部が国の史跡に指定されています。
昭和35年に3層4階の複合式天守閣が復元。現在は小田原市のシンボルとなっています。
小田原のマンホールに描かれた小田原城も、広重の浮世絵も3層の天守と櫓。現在の復興天守は、宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図を元に復元されたもので、広重の眺めた姿も現在の天守に似たものと推測できます。
「平成27年7月~平成28年4月に耐震補強も兼ねた平成の大改修が行ないました。1階に江戸時代の小田原城、2階には小田原北条氏の歴史や戦国時代の小田原城の様子を紹介、最上階には江戸時代の小田原城天守に祀られていたと伝えられる摩利支天像を安置しています。ぜひ一度、登城してみてください」
と、小田原城天守閣館長の諏訪間順さん。
小田原市のシンボル小田原城は、小田原の歴史的な魅力も発信しています。
小田原城天守閣 | |
名称 | 小田原城天守閣/おだわらじょうてんしゅかく |
所在地 | 神奈川県小田原市城内6-1 |
関連HP | 小田原城公式ホームページ |
電車・バスで | JR・箱根登山鉄道小田原駅から徒歩10分 |
ドライブで | 西湘バイパス小田原ICから約1.5km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 小田原城総合管理事務所 TEL:0465-23-1373 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
取材協力/小田原城
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