佐渡の宿根木村(現・佐渡市宿根木)は16世紀末頃、出雲崎から廻船業者が移住して廻船業を始めたと伝えられる湊町。南佐渡最大の湊として発展し、北前船の全盛期の江戸後期から明治半ばには経営者である船主と船頭、そして船乗り、船大工たちが谷あいに密集して暮らしてきました。町並みは佐渡宿根木伝統的建造物群保存地区に指定されています。
江戸時代後期から明治半ばに廻船業、造船業で繁栄
金山経営のために佐渡が幕府の直轄地となった江戸時代、隣接する小木港は寛文12年(1672年)に北前船(西廻り航路)の寄港地となり、金銀の積出港としても発展します。
商圏が近くの小木港に移った宿根木は、自ら造船し、西廻り航路を使っての交易に乗り出します。
船主、船頭だけでなく、船大工などを中心とする北前船の基地として発展。
宿根木で造られていた北前船は700石以下の中型船ですが、船大工の技術も高く評価され、多いときには40人もの船大工が暮らしていました。
こうして、全盛期には佐渡の富の3分の1が宿根木に集まっていたのです。
江戸時代後期、天保12年(1841年)になると、120世帯570人ほどが谷あいに暮らし、船持ちが9戸、船頭3戸、水主(かこ)27戸、船大工13戸で、13艘の船を持つ北前稼ぎと造船業の村となっていました。
船数の割に船頭が少ないのは、船主が船頭を兼ねていたから(つまりは家族経営)。
春先に大坂へ上り、秋に蝦夷地(北海道)の松前・江差に下って一航海とし、一船ごとに津々浦々で売買していく「買い積み方法」という廻船業が村の繁栄を支えていました。
越後の米を西廻りで大坂(大阪)へ運び、大坂(大阪)で塩や雑貨を仕入れて蝦夷地(北海道)で販売、蝦夷地(北海道)では昆布を仕入れといった具合に、多くの港に寄港しながら品物の価格差が利益となる「動く商店」といった感じの商いでした。
一航海で、現在の1億円にものぼる粗利をあげたという記録も残されています。
奇跡的に往時の町並みが残されたのは、転業しなかったから
明治以降は鉄道などの発展や明治18年、500石以上の和船の造船禁止令の公布などにより衰退していきましたが、家並みや環境は昔のままに残され、平成3年に新潟県で初めて重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。
100メートル四方(1ha)という狭い面積の宿根木の集落内には48戸が密集。
このうち伝統的な建造物は民家の主屋35棟、納屋29棟、土蔵25棟など合計108棟。
その大半が総2階造りとなっています。
「清九郎の家」、「金子屋」、「三角家」は公開民家として内部の見学も可能。
宿根木の家並みが昔のままに残されたのは、明治になって多くの北前船寄港地の廻船業者は、銀行業などの転業したのに対し、頑なに廻船業を守り、ついには家財を投げ売ったり、出稼ぎに出たり、なれない農業に転身しました。
それでも、開発が進まなかったのが、功を奏して、日本でも一番といわれる美しい北前船寄港地の家並みが残されたのです。
JR東日本『大人の休日倶楽部』宿根木散策篇(2014年)のテレビCMやポスターで、吉永小百合が宿根木の町を歩くシーンが話題になりました。
ひょっとことおかめに扮したお祭り役が、集落内を回り、各家でお神酒をもらい、家内安全、商売繁盛、子孫繁栄を祈願して『ちとちんとん』(新潟県の無形文化財)」を披露してまわります。
『ちとちんとん』は、宿根木の廻船が長州・角島(つのしま/現・山口県)を回り込む際に、初航海の船乗りが安全祈願に船魂明神に踊りを奉納したのが始まり。
赤鬼と青鬼の舞、祭文読み、「ちとちん」と呼ばれる男役(ひょっとこ)、「とんと」いう女子役(おかめ)、さらに笛、太鼓、拍子木のお囃子で構成されています。
「ちとちん」は70cmほどの巨大男根を手に舞うので、商売繁盛だけでなく、子孫繁栄を願ってもいるのです。
宿根木(佐渡宿根木伝統的建造物群保存地区) | |
名称 | 宿根木(佐渡宿根木伝統的建造物群保存地区) /しゅくねぎ(さどしゅくねぎでんとうてきけんぞうぶつほぞんちく) Seikuro Old House |
所在地 | 新潟県佐渡市宿根木 |
関連HP | 佐渡市公式観光情報サイト |
ドライブで | 両津港(新潟汽船ターミナル)から約43km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 佐渡観光交流機構 TEL:0259-27-5000 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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