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司馬遼太郎『峠』文学碑

司馬遼太郎『峠』文学碑

信濃川左岸、新潟県小千谷市「越の大橋」西詰に立つのが司馬遼太郎『峠』文学碑。幕末の北越戊辰戦争で、長岡藩の軍事総督を務めた河井継之助の生涯を描いた、司馬遼太郎の歴史小説『峠』。これにより、一般にはそれまで無名の存在にすぎなかった一藩士、河井継之助の名を一躍全国に知らしめました。

河井継之助の名を全国に知らしめた小説『峠』の文学碑

信濃川と対岸の激戦地・榎峠、朝日山一帯を望む、越の大橋のたもとに、これを記念した文学碑を平成5年に建立。
碑には、小説『峠』の一節と、司馬遼太郎の長岡藩、河井継之助に対する思いが直筆で刻まれています。

もともと小千谷市は越の大橋西詰の小公園に西脇順三郎文学碑建立を考えていましたが、山本清氏がこの地は西脇順三郎には関係なく、『峠』舞台を望む場所だと指摘しました。
その指摘を受けて、除幕式も謝礼もない状態で司馬遼太郎氏に交渉したところ、幸運にも快諾され、書き下ろしの碑文(『峠』のこと)まで執筆。
そのことからも、司馬遼太郎の河井継之助に対する熱い想いが伝わってきます。

2020年には司馬遼太郎『峠』が『峠 最後のサムライ』(監督:小泉堯史監督、主演:役所広司)として映画化。

司馬遼太郎 『峠』のこと碑文(全文)

江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。

その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。

ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。

かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

平成5年11月 司馬遼太郎

司馬遼太郎『峠』文学碑
名称 司馬遼太郎『峠』文学碑/しばりょうたろう『とうげ』ぶんがくひ
所在地 新潟県小千谷市高梨町
関連HP 小千谷市公式ホームページ
ドライブで 関越自動車道小千谷ICから約6.2km
駐車場 1台/無料
問い合わせ 小千谷観光協会 TEL:0258-83-3512/FAX:0258-83-0871
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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